エッセイ

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「海の民」にあこがれて(旅は道草・53) やぎ みね

2014.06.20 Fri

 新緑の季節、友人が自転車で琵琶湖の湖岸を一周。全周200キロを、ぐるっとまわって日焼けして帰ってきた。

 京都に、もう20年も住んでいるのに琵琶湖の全景を一度も見たことがないという。世界の果ての辺境の地に、海や川、山々を放浪して旅してきたというのに、こんな近くへ行ったことがないなんて、珍しい人だ。

 このところ風邪をこじらせてしまった私は、とてもとても同行はむり。せめて地図を広げて、以前、訪ねたことがある湖岸の地名をたどってみる。

 鈍行に乗り、ゆっくりと琵琶湖西岸を行く。右手に見える松林の向こうに静かな湖面が広がり、左手には小高い山々に和邇、白髭神社、高島まで、ずっと古墳群が続いている。このあたり、渡来人が住んでいたことが地名からもよくわかる。

 永原が終点。海津大崎のつづら折りの桜並木の半島の奥に、「海民」の集落・菅浦がある。

 さらに奥琵琶湖の賤ヶ岳の近く、余呉湖を車でまわったときは景色に見とれて、なぜか脱輪。

 木之本から高月へ走ると、朝鮮通信使とのかかわりの深い雨森芳洲庵がひっそりと建っていた。

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 もう10年も前に亡くなられた歴史家の網野善彦氏の講演を聴いたことがある。中世の湖賊や「菅浦文書」に触れ、海や湖を自由自在に行き来する「海民」が、まるで目の前に現れてくるかのようなお話に、ワクワクドキドキしながら聴き入ったことを思い出す。

 網野善彦氏は「負けた者の跡を未来に生かす歴史」を明らかにした希有な学者。だから魅力的なのだ。

 「海民」の社会は「村」と呼ばれた都市。非農業的、都市的な要素をもつ共同体。貨幣的な富を蓄積した豊かな廻船人を中心に、さまざまな生業をもち、栄えていた。

 海に囲まれた日本各地に、たとえば九州の坊津、平戸、博多、宗像。瀬戸内の赤間関、祝島、鞆、尾道。伊勢の大湊、桑名、宇治、山田。琵琶湖の大津、堅田、今津、海津。日本海の小浜、敦賀、三国湊。能登の珠洲、輪島などに拠点をおき、「海賊」と呼ばれた「海の領主」たちが、海上交通を用いて朝鮮半島や中国大陸まで広く交易のネットワークを形成していった。

 清盛が、村上水軍の力を得て厳島から瀬戸内、湊川、淀川、宇治川を経て琵琶湖に入り、日本海の敦賀、若狭へと列島を横断する海運を達成しようと目論んだのも決して妄想ではない。

 現に壇の浦の合戦で源氏に敗れ、一人生き残った平時忠が、やがて能登に流され、その子孫が興した「海民」たちの栄華の跡が、今も能登の宇出津の港に、時国家(ときくにけ)という豪壮な邸宅として残っている。

 島国だからこそ日本は海に開かれている。

 柳田国男の『海上の道』を読むまでもなく、どんぶらこっこと南の島から流れてきた椰子の実のように、北へも東へも西へも、さまざまなものが海の上を遠く、近く、行き交った。その文化を互いに受け入れる多くの人々がいた。

 「海の民」の知恵と勇気と団結力と、そして今こそ「異なる存在」への、しなやかな交渉力を思い起こそう。

ポルトガル・ロカ岬

ポルトガル・ロカ岬

 私も旅の思い出を、ちょっと夢想してみようかな。

 あるときは、ポルトガルの最西端・ロカ岬に立ち、晴れ渡った大西洋を前にして「ほら、ここからイギリスが見えるよ」と叫んでみたり。

 またあるときは、地中海の島・マルタで、人っ子ひとりいない半島の絶壁を、こわごわとよじ登ってコケそうになり、「このまま海に落ちて地中海の藻屑と消えるのもいいかもね」と度胸を決めたり。

トルコ・ボスポラス海峡

トルコ・ボスポラス海峡

 そしてあるときは、トルコ・イスタンブールの潮の香がするボスポラス海峡を、アジア側のウシュクダラから一望し、「うん、ここが東と西の文化を融合させた海なんだ」と納得してみたりして。

 旅は、いつ何が起こるかわからない非日常の時間。ひとり見知らぬ土地にほおりだされても、したたかに臨機応変に対応しなければならない。

「海の民」の知恵と勇気と磊落さを見習って。

 そんな旅の知恵のいくつかを、あの自転車の男友だちに教えてもらった。今も旅するときは、ほんと役に立っている。

 「海の民」にあこがれて、ふっと童謡「うみ」を、そっと口ずさんでみたくなった。

うみはひろいな おおきいな つきがのぼるし ひがしずむ
うみはおおなみ あおいなみ ゆれてどこまでつづくやら
うみにおふねをうかばせて いってみたいな よそのくに

 「旅は道草」は毎月20日に掲載予定です。これまでの記事は、こちらからどうぞ。








カテゴリー:旅は道草

タグ:くらし・生活 / / やぎみね