エッセイ

views

1126

修復的司法について 大家智子

2015.09.25 Fri

 先日ジェンダー問題に関するある本を読んでいると、性犯罪加害者を対象とした「修復的司法」について、取り上げた章が出てきた。修復的司法とは、加害者を、被害者との直接の対話・コミュニケーションにより、更生につなげる取り組みであるという。

 性暴力以外の犯罪にも、この手法が用いられることがあるが、ここでは性暴力のケースに限定して取り上げたい。

 結論から言うと私自身は、被害者本人の自発的な意思により、かつそれが専門家の適切かつ細心の注意を払ったサポートを伴う場合以外、「修復的司法」を勧める側が、ひたすら加害者の更生しか考えず、被害者の負った傷や、苦しく耐え難い心情を置き去りにしたり、疎かにする形で勧めること、また被害者の心情や置かれた状況に配慮せず、被害者を強制的にそこに参画させることには、断じて反対である。

 犯罪の中でも、性暴力とは、被害者の人間としての尊厳を奪い、貶め、蹂躙する、非常に重い罪であり、その傷から被害者が回復するのには、当事者以外の人間がとても想像のつかないような苦しい道程を、心身に深い傷を負った状態で経なければならないのだ。当事者の書いたものを読ませて頂くと、性被害のトラウマにより傷を負わされ、そこから立ち上がり、生きていく苦しみが、痛いほど、重く伝わってくる。

 加害者は自分の優位性をバックにして、被害者を傷つけ貶めることで力による支配欲を満たすため、性暴力を行う。加害者と被害者との間には、力関係における大きな非対称性が存在する。強者から弱者への支配関係を、加害者は性暴力において持ち込んでいるのだ。

 またとりわけ日本においては、性暴力被害者の人権は無視又は軽視され、彼らに適切な情報を提供し、支援し、ケアする体制が、ごく最近まで皆無といっていいほどなく、彼らの負った酷い苦痛については、軽視されることが少なくなく、置き去りにされがちである。このような状況で被害者が生きていくことは、背負わなくてもよかったはずの困難と苦しみを伴うことになる。

 翻って、加害者側に対してはどうだろう。 日本では性暴力に関して、量刑が不当に少ない。それは性暴力が、被害者への重大な人権侵害であるという認識が、法律の中に存在していないことの表れである。また酷いケースでは、加害者が無罪になることさえある。 近親者による性暴力に至っては、それらは黙認され、また法の裁きを容易に免れやすいという、理不尽極まりない状況が、ごく最近まで続いてきた。

 また被害者のケアに使われる税金は、加害者に対して使われるのと比べて、あまりにも少ない。

 またこの国では、男性が暴力的に性欲を行使することが、あまりにも甘く見られ過ぎている。性に関することは、人間の尊厳という、人が生きる上での根本に関わってくることであるにもかかわらず。 また女性は、男性が都合よく使うことのできる、欲望の対象と見なされる空気が蔓延している。それが人間に対する真っ当な扱いとは、口が裂けても言えないだろう。 それは、ジェンダー間の不平等ともつながってくる。

 性犯罪への処置に関して、諸外国と比べて大幅に遅れ、被害者の人権と、サポートを受ける権利がまだまだあまりにも低く見積もられている。

 上記のような状況で、修復的司法がこの国の性暴力犯罪にも導入されたとしたら、一体どうなるだろう? 加害者が更に甘やかされ、修復的司法の本来の意味を履き違えた支援者がはびこり、加害者の罪と負うべき責任を、厳しく問うことが疎かになるかもしれない。

 そして被害者側が、心無い者達に、加害者側の身勝手で理不尽な言い分を吐き出すための、「使い勝手のいいはけ口又は道具」と見なされ、また、加害者から被害者へのパワーコントロールや、被害者の負わされた重い傷や苦しみに理解を及ぼすことなく、修復的司法への参加を希望しない被害者を断罪し、糾弾する空気が生まれはしないかと、私は強い懸念を抱かずにいられない。

 以上の理由で、私は性犯罪における修復的司法の導入を、断固反対するものである。

カテゴリー:投稿エッセイ

タグ:DV・性暴力・ハラスメント