上野千鶴子さんの移住連質問状への回答を拝読しました。新聞記事の訂正をなさることを期待していたのですが、上野さんはやはり「政策として大量移民を推進すべきか」という問いに答えを出すことを優先なさるあまり、「移民や外国籍住人との共生の責任は誰にあるのか」を見失っていらっしゃるように見えます。
移民の理解については移住連から、シティズンシップという観点からは岡野八代さんから、それぞれ専門家の見解が表明されています。フェミニズム/クィア理論の研究者としてわたしが真っ先に感じたのは、上野さんの今回の御主張が「フェミニストの主張」でもあるのなら、その「フェミニズム」はわたしの理解してきた「フェミニズム」とは違う、ということでした。

上野さんの御主張が「社会体制の変革なしに労働力確保のみを目指して大量移民政策をとるのは無責任である」ということなら分かりますし、わたしも同意します。上野さんのコメントとして掲載された最初の記事を批判した方達の多くも、おそらくそれは同じだろうと思います。けれども、それと「日本人は多文化共生には耐えられないから移民を受け入れるべきではない」との間には、大きな隔たりがあります。
前者はまさに後者のような現状の変革を要求するものであり、逆に後者は前者が変革しようとしている現状を追認するものです。「現状を放置したままの大量移民政策は無責任」であるとすれば、なされるべきは現状の改善です。そこから一足飛びに「だから移民はやめよう」といい、いわんやそれを「日本人は多文化共生に耐えられない」というような「不変の国民性」に帰すのは、現状放置に他ならないのではありませんか。

理想主義も結構だが現実を見るべきというご意見についても、「排外主義的な政治的リーダーが影響力を持つようになること」「移民家事労働者の差別や虐待が起きること」が「日本で起きかねない」と仰るのを拝読すると、現実を見ていないのはどちらだろうかと疑わざるを得ません。日本では既に排外主義的な政治的リーダーが影響力を持ち、移民労働者の搾取は各方面で問題になっています。その現状を踏まえればまず主張すべきは現状改善であり 、社会不安の原因を移民に帰着させる「大量移民による社会不安」というような発言は現状を悪化させるだけだというのが、批判側の論点ではなかったでしょうか。

なかでも、フェミニスト理論の研究者として私が上野さんととりわけ大きく見解が異なると感じるのは、ジェンダーやセクシュアリティと移民の問題は同じにできない、なぜなら前者は選択できないが後者は政治的に選択可能だからだ、との御主張のくだりです。
これは、位相の異なる話を混在したまま並立させているもののように思えます。ジェンダーやセクシュアリティは「選択不可能」で移民は「選択可能」という時、誰が、何を、選択していることが、想定されているのでしょうか。

例えば日本には、選択して日本に来たわけではない、あるいは日本で生まれ育った外国籍住人が、既に多数存在しています。その点を考慮せずに「移民と選択」の話をすることはそれ自体きわめて無理があると思うのですが、ここでは「現在のことではなく、将来の話をしている」という上野さんに最大限寄り添って、今後日本に移住するかもしれない移民一世に絞って考えたいと思います。

移民一世が「生まれた国を離れて生活する」のは、個人的な決断であると同時に、グローバルな経済格差やそれぞれの政治的社会的状況に促されているという意味で、たしかに政治的な—政治的状況に強く影響され、そして政治的な効果をもつ—決断です。けれどもそれを言うのであれば、「女性の労働条件がまだ圧倒的に悪い社会で女性が婚姻に経済的安定を求めず単身で生きる」のも、「性別が二つしか許容されていない社会で付与されたジェンダーを受け入れる/拒否する」のも、「異性愛主義が根強い社会でカムアウトして/クローゼットで生きる」のも、同じ意味で個人的かつ政治的な選択です。すでに政治的に強く規定された諸条件の下でなされたそれらの決断に対して「それを選択しないこともできる」と言いつつ実質的にその選択を制限する権利が、いったい誰にあるのでしょうか。もしそう言うとすれば、それは「その選択の結果生まれた状況に不満があるならそういう選択をしなければよかったのだ」とする自己責任論と、極めて近くなってしまうのではないでしょうか。

そもそもジェンダーやセクシュアリティについて語るのであれば、非規範的な性愛やジェンダー表現がかつては(あるいは残念ながら今でも一部において)「選択可能であり従ってそれを選択した場合には責任を負うべきもの」として考えられていたことを忘れるわけにはいかないでしょう。 同性間性愛や異性装を犯罪とするそれらの言説に反対し「これは自由な選択の結果ではないから、犯罪とみなすべきではない」というために病理化の言説が生まれたこと、それが強制収容や同性愛治療という悲劇に繋がったこと、その歴史を踏まえ、選択であるか否かを問わず性自認や性的指向を承認される「権利」が追求されてきたことを、忘れるわけにはいかないでしょう。
性自認や性的指向はたしかに多くの場合、個々人が意図的に自由に選択できるものではありません。けれども、ジェンダーやセクシュアリティにかかわる社会的不公正が是正されるべきなのは、それらが「選択できないものであるから」ではありません。同性にも異性にも惹かれるある人が、同性を性愛と生活のパートナーとすることを「選択」したとしても、それを理由に不公正な扱いを受けるべきではない。「埋没」して生きることができるある人が、自らをトランスジェンダーであると公言することを「選択」したとしても、それを理由に不公正な扱いを受けるべきではないのです。
同様に、そもそも移住の決断はしばしば個人の自由な「選択」ではなく、経済的・政治的な要因にも強く規定されています。そして、そこに個人の選択という要素があったとしても、それを理由に、移住の権利、移民としてある土地に生活する権利を制限すべきだという主張に繋げてはならないはずです。

あるいは、上野さんは移民にかかわる「政策」は政治的選択だと仰りたかったのかもしれません。けれどもそれを言うのであれば、ジェンダーやセクシュアリティにかかわる政策も、政治的選択です。

「排外主義の悪化を避けるために移民増加を避ける(繰り返しますが、これは「外国籍住民の権利保障を放棄したまま労働力としてのみ移民を大量導入する政策への反対」からは大きく隔たっています)」ことを政策として主張し採用するのは、誰なのでしょうか。「日本人」がこれを移民に関する現実主義的政策として認めても良いのであれば、「社会の女性嫌悪の悪化を避けるために女性の〈社会進出〉を制限する政策」を男性が主張し採用することも、許されてしまうのではないでしょうか。
あるいはそれは、日本のホモフォビアの現状を前にして「異性愛主義の現状を改善するべき」ではなく「同性愛者が可視化されることはホモフォビックなヘイトクライムを招いて社会不安を引き起こすから、これ以上カミングアウトをさせない政策をとるべきだ」と主張することと、同じではないですか。

フェミニストとして、それは、加担してはならないロジックではありませんか。
ある社会の対応の不備によって生じる「かもしれない」問題—言い換えれば、ある社会を構成するマジョリティの問題—の解決を、マイノリティの権利の制限によってはかろうとするのは、フェミニズムの根本と矛盾する態度ではないのでしょうか。

今回の「回答」で上野さんは「移民が社会移動から切り離されてサバルタン化することや、それを通じて暴動やテロが発生すること」と書いていらっしゃいます。小さいところではあるのですが、わたしはこの「サバルタン」の使用法に強い違和感を抱きました。
サバルタンとは、その政治/社会/言語的主体性が社会において承認されない存在であるはずです。そうであれば、移民がもしサバルタン的状況におかれるとしたら、その時に「サバルタン化する」主語/主体は受け入れ社会の側であり、移民の側ではありません。「移民が…サバルタン化する」とは言えないはずなのです。

これは「サバルタン化」を食い止める責任が誰にあるのか、ということでもあります。

スピヴァクが「サバルタンは語れない」を「サバルタンは聞き取られない」と言い換えたのは、まさにその点を明確にするためでした。わたしたちはたとえ聞き取ることができなくてもなおその声を聞き取ろうと努めなくてはならない。それがスピヴァクの、サバルタンではないフェミニストとしての、フェミニズムでした。
それを考えれば、この文脈ではマジョリティの一員であるフェミニストが「移民のサバルタン化」を自然現象のように、ましてや「移民」を主語/主体として語ることは、不正確であるばかりか、不誠実ですらあります。

日本社会が多文化社会にあるいは外国籍住民の増加に対応できていないのであれば、それは日本社会に生きている、とりわけ日本社会で日本国籍を保持して生きている人々の問題です。 「わたしたちは移民や外国籍住人の権利を守れないし、その結果社会不安が起きたりしたら困るから、移民や外国籍住人が増えないように彼らの移住の権利を制限しましょう」と言うのは、「わたしたち」の問題を「彼ら」に転嫁することに他なりません。
フェミニズムは、「女性たち」が直面する問題を「女性の問題」ではなく「男性社会によって(あるいは「家父長制」によって)作り出された問題」であると看破し、今あるものとは異なる社会の可能性を想像して社会の変革を求めてきました。「男性社会におけるマイノリティとしての女性」としてではなく、たとえば「日本社会におけるマジョリティとしての日本国籍保持者」としてであっても、あるいはその時にこそなおさら、フェミニストはその「見方」とその「想像力」を捨てるべきではないとわたしは思います。フェミニズムは「マジョリティの女」だけのものではなく、そして、フェミニズムの希望はまさにそこにあるはずなのですから。