「楽しかった」と言っては、失礼なのだろうか。3月3日、WithYouさいたまで開催された平山亮さんの講演会に参加して、終了後の第一声が「楽しかった」だった。何度、笑っただろうか。
 この講演会は氏の著書である『介護する息子たち』をベースにした、どちらかと言えば「メンズプロジェクト」と題されたように男性向けの講演会であった。そして、そこに参加したのには密かな期待があった。
 丁度一年前、ボランティアとして所属する上野ゼミに平山さんをお招きしての書評セッションが開催されたが、そのコメンテイターをつとめさせて戴くことになり、何度も何度も繰り返し本書を読んだ。突っ込みどころは無いかといじわるな視線で読んでいたのが、読み進むうちにミイラ取りが「やんや、やんや」の喝采ばかりのミイラになってしまって、批判的なコメントが皆無になってしまった…という経緯があった。それ程、この本に魅せられてしまったのだった。
 本書は「介護する息子」を通して見えてくる「男性性」を問う、男性研究の論文なのである。そこで展開されるのがこれまで無かった「男が履かせて貰っている下駄」を外そうという胸のすく理論展開であり…ということで、講演会でも平山さんの鋭い「男性性」の告発が聴ける…と短絡した期待で参加したのだった。
 ところがどっこい!!!、平山さんは「研究書」と「講演会」の「違い」をきっちりとわきまえた、洗練された話術まで身に着けての登場だった。
 人は、頭ごなしに「否」を指摘されると、聴く耳を持たなくなる。大事な言葉も、言ってないのと同じことになってしまう。酷い場合は拒否反応まで起こして、その言葉が仇となってしまうことさえある。そこまで計算しつくされた上での話術だった、と思う。
 人に伝える、受け入れて貰う。私にとってこの講演会は、その為のレクチャーでもあった。

 平山氏の本来のご専門は介護ではなく「中高年男性の人間関係」。これまでの過去の研究の中で、成人女性の親との関係は一大テーマであるのに、大人になった後の中高年男性の親との研究が全然出てこないこと、「息子と親との関係」「息子としての自分」について調べられていないことを面白いと感じて研究を始め、中高年の息子の親は大抵高齢であることからその延長線上にある息子介護を取り上げることになった。故に、「介護の問題」としてではなく「男のあるある」(男性が普段よくやっていること)から噴き出してくる息子介護の問題を「男性問題」として解きたいと研究されている、とのことである。
 以下は、私がまとめた平山氏講演会の概要である。

 今回の論点は三つ。
①超速「介護の日本史」:私たちが知っているような家族介護がどういう経緯をたどって現在の形になったか?昔はどうで、何が原因でこう変わってきたのか?
②ここでトラブる「息子の介護」:男性が様々な人間関係(夫婦関係・兄弟姉妹との関係)の中でやってしまいがちなことが、息子介護の現場でどういう問題として出ているのか?
③以上を踏まえた上で、ケアについて知っていて欲しいこと:

(1)超速「介護の日本史」
 歴史を振り返ること、ある事柄が歴史の中でどのような変遷をたどってきたかを確認することは本当に大切なことだ…と今回の平山さんのお話でも痛感した。人は、自分の置かれた環境を飛び越えてものごとを見たり考えたりすることが残念ながら出来ないからだ。結局は、井の中の蛙としてしか判断できない。ところが、歴史を振り返るだけで、一瞬で世界観が変わってしまうことさえある。「老親の介護」を江戸時代まで遡るだけで、私の「息子介護」観は、ものの見事にひっくりかえってしまった。現在の「息子介護」を、平山さんはまず歴史から斬り込む。
 日本史を遡れば息子介護は珍しいものではなく、江戸時代に武家では「高齢の親を看ること」は「男子のつとめ」だった。これは忠孝の流れで、各藩には「看病理(ことわり)」という介護休業制度まであったらしい。今より遥かに優れた制度が、整えられていたのである。高齢の親を看ることは藩の公務にも匹敵するものと位置づけられ、林子平(父兄訓)や貝原益軒(養生訓)の本には、男による介護のノウハウが書かれていたりするという(※1)。すごい…江戸時代も「男として~ねばならない」(男らしさのアピール)に男は弱かった、ということまで明らかになってしまった(笑)。
 一方、庶民の間では家業の合間に手の空いた人みんな(家族も家族以外も)で看ていた。これが可能だったのは、今と違って職住が一致していたから。近代(明治)以降は職住が不一致になり、生活を共にする限られた人数での介護に変わってしまい「家族の世話は家族だけで」になっていった。加えて、圧倒的な男女格差から、ここで初めて「男は仕事、女は家事」に変わっていく。そして、戦後の経済成長期に高齢者が増えたことから「息子の妻が介護」が初めて出現する。が、「介護の問題」がクローズアップされてきたのはごく最近のこと。高齢者の割合が少なかった日本は意外にも「高齢化後進国」で、90年代になってから高齢社会を迎える。経済成長が可能だったのは、日本がまだ高齢化しておらず高齢者福祉にお金が掛からなかったから。そして、介護の負担が長男の嫁たった一人だけに押し付けられていたからの「経済成長」だった…知らなかった!!。歴史を見れば、長男の嫁、つまり息子の妻が看る歴史は本当に浅かった。長男の嫁が夫の親の面倒を見るのは、「美しき伝統」でも何でもなかった!! では、息子介護が増えたのは男性の意識が変わったから?介護の意向を示す男性の特徴を調べていくと、介護する積りのある息子、特に20~30代の若者たちは妻には専業主婦を望む。つまり「妻が何かしらやってくれる」ということを見込んでの介護だった、ということが暴かれる(※2)。社会や権威から「公務」であるとみなされてはいない現在の介護を、男たちは「男のつとめ」だとは考えていないし「妻へのおんぶにだっこはトーゼン」と考えているらしい(怒)。

(2)介護の現場でトラブる「息子の介護」
 続いて平山さんは、男性論の核心へと迫っていく。介護する息子たちとその妻たち。では、そこに対等な夫婦関係はあるのだろうか?介護する息子は妻に見放された末の単独介護ばかりではなく、自分の都合が悪い時には妻が代わりをつとめ、声掛けや見守り、介護に必要な物の補充も妻がやってくれている。この介護態勢は事前の確認や意志の確認は無く「今のやり方は、いつの間にか何となくでき」「妻の手伝いは自発的」であり「頼んでいない」し「やれと強制したことも無い」と息子たちは宣う。「やって貰いたいと思ったことはありますか?」には「いや、妻にはさせられないよ」「向こうの親も世話が必要で実家に行っているから、旦那の親まではね」と答える。ホントに?
 立場を逆転させてみた時、妻も同じことを言うのだろうか?いや「言わない!!」、と即座に答えている私がいる。夫は、最初から妻の親の介護候補にすら入っていない。夫が妻に対して義両親の介護を「しなくていい」と言えるのは、言外に「本来はすべき」があるから言えることに他ならない。未だに義両親の介護候補には有無を言わせず入れられている妻と、妻の両親の介護候補にはハナから入っていない夫、その妻と夫が果たして対等と言えるのだろうか?、と平山さんは畳み掛ける。
 高齢の親の介護で実子である息子とその妻、この比較は海外ではブーイングだそうだ。「これでは何も言えない。比べるものではない。どこが対等なんですか?」と。「然り」。比べられるのは実の娘と実の息子の介護のはず。日本では義理の娘である息子の妻の介護はある(あって当然)が、義理の息子(娘の夫)の介護はほぼ「0」。義理の親への介護では、義理の息子は「しなくていい」がデフォルトで、義理の娘では「するべき」がデフォルトだ。
 義理の娘(嫁)の介護は減ってきているとはいえ、未だに実子(息子)介護と同じくらいの割合である。そして、他の続き柄による介護の割合は変化しているのに、義理の息子による介護だけは殆ど変化が無く「ほぼ0」は不動である。これでは、介護において夫と妻が「対等である」とはとても言えない。親の介護におけるこのいびつな状況こそ、日本のすべての局面におけるジェンダー不平等、ジェンダー指数が目も当てられない数値であることに繋がっている。
 妻が夫である息子の介護を手伝うのは自発的なものではなく「嫁がやるべき」というプレッシャーを受けている環境だからやっているだけなのだ。

 では主介護者が息子で、そこで妻が手助けしていることは「タダの手伝い」なのだろうか?そもそも「介護」とは何だろう?ここで、私たちの「介護」の勝手なイメージが崩されていく。介護に必要な様々なことと「介護」そのものは、実は別のことだという。
 日常生活動作(ADL:Activities of Daily Living 自立生活の指標。日常生活を送るために最低限必要な日常的な動作で、「起居動作・移乗・移動・食事・更衣・排泄・入浴・整容」動作)、誰か他の人に代わって貰えない活動が出来ない場合の手助けを「介護」と言う。「息子介護」は、親のADLの手助けを主にしているのが息子、のことだが、介護するためには様々な基礎が必要になる。食事の介助には食事が用意されていることが必要だし、着替えには衣類が洗濯されていることが必要となる。また、介護する人自身の生活の為の家事ももちろん必要だ。そしてこれらのことは、介護者が息子である場合、その息子が結婚していれば殆どすべてをその妻がしている。介護する「基礎」の部分は、妻がしている。つまり妻がしていることは「タダの手伝い」ではなく「介護(するため)の基礎」であり、立派に「介護」と言える。これ、「娘介護」の場合にも、同じことが言えるのだろうか?ADLの介助以外を、夫に任せている娘はいるのか?「娘介護」の場合は「介護の基礎」も「介護」も、その殆どは娘がしているのだ。介護の場でも、ダブルワークは常に女性の側だけだ。妻の手伝いは「タダの」「些末な」ことではなく「介護の基礎」であり、立派に「介護」なのだ。
 では、結婚している「息子介護」で妻に対して夫には何が必要となるのだろうか?夫は実の親の介護だが、妻の立場は夫とは違う。妻には「嫁なのだから介護しろ」というプレッシャーが常に掛かっていることを忘れず、「しなくていい」と思っているならはっきりとそう伝えるべきだ。手伝って欲しいのなら、コミュニケーションを密にして交渉する。「手伝って貰える」と勝手に思い込んでいるのが、妻にはムカつく。それが妻の自尊心を踏みつけにしていることだから、妻は怒る。夫の親は義理の娘には介護して欲しくないと考えているし、妻も夫の両親の介護はしたくないと考えている。「介護」と「介護の基礎」とは分けられるのだから、「介護の基礎」の手伝いなら妻もできる。信田さよ子(※3)が「既婚の息子介護は夫婦関係の総決算である」と言うのは、このことだ。それまでの夫婦の在り方が、ここで問われている。妻への無言のプレッシャーに気づかずに「オレ様一人でやっている」と考えるのは大きな勘違い。このディスコミは、間違いなく夫婦関係を悪化させる。肝に銘ずべし。

 介護する息子と兄弟姉妹の関係はどうだろうか?親が要介護の状態の時に娘に一番ストレスが掛かるのは男兄弟がいること、と調査からは明らかになっている。娘と息子では、高齢の親に対する接し方が違う。娘は親が衰えていることに注目して手助けすることで生活を維持したいと考え、息子は衰えていないことに注目して手助けを最小限にして手助け不要の状態に復帰させたいと考える。だから、親への接し方が違ってくる。娘から見ると、手助け最小限の息子介護は「ちゃんと面倒をみていない」ということになってしまう。が、至れり尽くせりの手厚い介護が良いことかと言えば、メンタルヘルスからは悪くなることが分かっている。息子介護にも、メリットはある。
 なぜ、息子介護は「手助け最小限」になるのだろうか?それは、加齢による衰え、もう元の状態に戻せない・戻らないことを、息子が娘以上に受け入れるのが難しいからだ。親にやる気が無い訳でも自分のやり方が悪い訳でもない、加齢による不可逆的変化を息子は受け入れられないのだ。
 息子介護が上手くいっている場合、息子自身気付かないところで誰かに助けられていることがあるが、それを息子は「オレのやり方で上手くいっている」と思い込んでしまう。姉弟がいる場合、表立って手助けすると息子がキレてしまうことを経験しているので、様々なことを姉妹はこっそり調整してくれている。

 親が「ちゃんとしてる」というのは、どういうことだろうか?これは、母親の場合と父親の場合では違う。母親が衰えたと判断されるのは、これまでやってきた家事や家族の世話が出来なくなった時。母親は「できなくなった」ことを、家事で計られる。これ、同じことは父にも言えるだろうか?要介護状態になる前から一切家事などしていない父には、もちろん言えない。男とは「生涯要支援状態」の人たちのこと☆(座布団、1枚!!!)だ。
 老後というのはリタイア後の生活だから、必要な労働は家事が殆ど。だから出来なくなったのが目立つのは母の方であり、「ちゃんとして!」と思われ易いのも母の方。息子に厳しくされ易いのは、だから母親。こでは、親と息子の関係だが、夫婦の間ではどうなるのか?
 認知症が進んで「手に負えない」と思う状態も、父と母で違う。配偶者介護(老々介護)の場合、連れがボケた時に怪我が多いのはどちらだろうか?答は実は、「妻を介護する夫」。これは「異性の暴力をどう見るか」の違いによるもの(※4)。妻は暴れる夫をちゃんと恐れることができるから「自分の手に負えない」と判断すると、酷くなる前に第三者に助けを求める。が、夫の場合は恐れるのではなく妻を侮る。侮って、組み伏せたいと考える。暴れる妻を、バカにしてしまうのだ。所詮女の力と見誤り、高を括る。妻に負けたとは言えないから、第三者を入れず何としても妻を組み伏せようとしてしまう。ここに、夫の誤算がある。相手は所詮ばあさんだ、と。ところが彼らは大事なことを忘れているのだ。自分がじいさん!!であるということを。だから、怪我をしてしまう。男性諸氏、このことゆめ忘るべからず。
 高齢の女性は侮られやすく、母は父より「何とか出来る」と思われやすい。そして実際に「何とかしよう」としてしまう。これは配偶者介護の場合だが、ここに見られる性差別・年齢差別は相手が親でも同じことが起こる。若い息子が要介護の母親を何とかしようと思ったら、実際にやってしまったら、自分ではその意図が無かったのに殺してしまった、ということも起こる。
 息子の場合は、母親を責めやすい。老親へのネグレクトや虐待は「普通じゃない」息子がするのではなく、どんな息子もそうする可能性がある。虐待している息子もそうでない息子も、実は同じ地平にある。男の人が老親の衰えを楽観的に見がちであること、それが虐待に連なっていることを思い出し、自分の見方を客観的に見直してみる。男の「こういう風に自然にやってしまう」ことが分かっていれば、それは意志の力で変えられる。こういう男女の差についての研究成果は、そう踏みとどまるためにあると考えるべき…直球の男性性批判ではなく、これまでの男の在り方から学び取り、自分を変える契機にしよう…と平山さんは私たちをインスパイアする。

(3)ケアについて知っていて欲しいこと
 ケアについて知って欲しいのは、相談することの意味と助けを求めることの意味。代わりに答えを出してもらうことは、相談ではない。ケアマネさんに相談する、とは選択肢を探してもらうということ。男性は中々相談できず「助けて」と言えないので孤立しがちである、とよく言われるが、実はケアに関して「相談する」ことのハードルが高いのは女性の方。男はケアが得意でないことは「当たり前」と考えられているが、女が相談すると「女なのに家事ができない」「面倒が見られない」と判断されてしまうことがあって、「できない」に傷付くのは実は女性が多い。また、女性が介護していても当たり前過ぎるので注意を向けられることは少なく、目にもつかない。介護が始まると人との関りが減ってしまうのも女性の方が多いことは、研究からも証明されている。男が介護を始めると気にかけて貰い易いが、気付いて貰い難いのが女性なのだ。

 「ケアの責任」とは何だろう。独りで頑張るのが、責任ではない。ケアとは「依存的な存在」の生を支えること。だとしたら、生き延び易くするためには依存先の分散や分割こそが重要だ。私たちは、見方を変える必要がある。独りでケアすることは依存先が限定されることであり、生き延びる可能性を少なくしてしまうこと。自分だけに依存させない方が、ケアの責任・目的が達成させやすい。もしケアの分散を非難されることがあったら、「大事だから、生き延びさせないといけないから、(責任感が強いから)自分独りでやらないんです」と堂々と言って良い。
 具体的にどうサポーターを作るか?サポートの依頼は、具体的にお願いすることが大切。どこまで介入して良いのか、見守りはどんな風にして貰うかを具体的に伝えることがポイント。
 「介護の問題」は「介護」だけに限ったものではない。これらは夫婦関係、姉弟関係の延長上で起こる。具体的な介護のノウハウを学ぶことだけが「介護」の備えなのではなく、「男のあるある」「男のやってしまいがちなこと」を学び、「男だから」「女だから」についての研究成果を自分の可能性(自分に起こる確率はゼロではない)として常に考えること(シミュレートする)も大切な「介護の準備」。そして、「ケアの責任」の考え方を変え、ケアを分散させる(他の人に頼る)ことで難しい家族介護のハードルは下がっていく。

 「なぜ、息子介護には特徴的なことがあるのか?」という、私にとっても疑問だったことがこの講演会で見事に解き明かされた。こうしてまとめてみると、介護を通して見えてくる「男のあるある」「女のあるある」が男性性を鋭く切り取って平山さんの研究テーマにピタリと重なっていることが分かる。そしてその成果は、本棚の奥にしまわれてしまうだけのものではなく、私たちにとって福音である「より良く生きるための実用書」になっている。
 時代の制約、置かれた環境、ジェンダーの縛り…それに気づかぬままに生きてきて、身体も体力も…そのすべてが下り坂の「しんどい」時に親やパートナーの介護が待っている。幸い、ジェンダーや介護に関する知見は沢山出てきた。私たちはもう、井の中の蛙ではない。
 様々な「ねばならない」が解体され始めた今、自分の経験と違和感や疑問の声に真摯に耳を傾け、これらの研究成果を味方につけて、しんどい時の介護を何とか乗り切りソフトランディングしたい…こんな希望を抱かせてくれる、「楽しい」講演会だった。ご講演、有難うございました。

※1 柳谷慶子,2011,『江戸時代の老いと看取り』山川出版社.
※2 中西素子,2009,『若者の介護意識:親子関係とジェンダー不均衡』勁草書房.
※3 信濃毎日新聞,2014,7月20日号『迫りくる「息子介護」の時代』書評.
※4 Calasanti, Toni M., 2006, Gender and old age: Lessons from spousal care work. In Age matters: Realigning feminist thinking (pp. 269-294), edited by Toni M. Calasanti and Kathleen F. Slevin. New York, USA: Routledge.
平山 亮,2017,『介護する息子たち』勁草書房.

(本レポートは、平山氏のご了解を得ております)

介護する息子たち: 男性性の死角とケアのジェンダー分析

著者:平山 亮

勁草書房( 2017-02-16 )