Where we are right now (or where we thought we were)

(2年前にハーパーズ・バザーのフェミニズム特集号に寄せた短文です。もう二年前だし、自分のところで公開しても良いかなと。
ツイッター上でのトランス女性排除に関連して、「他のいかなる運動とも連帯しない、女体持ちのためだけのフェミニズムが欲しい(大意)」的なツイートまで出回るようになってきているので、まさにハーパーズ・バザーの編集の方が二年前につけてくださったタイトル通り、現在のフェミニズムってこういうところに来ていたはず、ということを確認しておきたいと思います) Shimizu Akiko·2019年1月6日日曜日

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Where We Are Right Now :多義的に進化するフェミニズムの現在地 (Harper's Bazaar 2017年6月号掲載)

フェミニズムが戻ってきた。欧米でそう言われるようになって数年が経つ。ビヨンセやエマ・ワトソンといったセレブリティがフェミニストを名乗り、ポップなエンパワメント系からガチなアクティヴィズム系までフェミニズムサイトが続々と誕生し、今やフェミニズムはちょっとしたブームだ。

でも、そもそもフェミニズムって何だっけと考えると、これが意外にわかりにくい。「フェミニズムをひと言で定義してください」と言われたら、専門の研究者やアクティヴィストでも一瞬たじろぐだろう。

女性も男性と同等の権利と尊厳を持つと考える人はすべてフェミニストだ、という言い方がある。出発点として、これは間違いではない。
同時に、「フェミは一人一派」という言い方もあって、これもある意味では正しい。実際、フェミニストの間で「それってフェミニズムとしておかしくない?」「いやそれはありでしょ」という議論が交わされることは、珍しくない。

あらゆるフェミニストが人生のあらゆる面で何かひとつの「フェミニズムのルール」に従うわけではなく、かといって何も共通点がないわけでもない。「バッド・フェミニスト」にしても「バッドでもフェミニスト」なわけで、議論は結局そこに戻ってしまう—フェミニズムって、何?

「女性は男性と同等の権利と尊厳を持つと考える」ということに加え、フェミニズムにはいくつかの重要な性質がある。あるいは、そこから出発し常にそこに立ち返るべき理念がある。

第一に、フェミニズムとは制度を問うものだ、ということ。

そもそもフェミニズムが一人一派と言われるのは、バイブルやお題目があってそれを学ぶところからではなく、それぞれの個人が直面している問題から出発するためでもある。ただ、フェミニズムは、それぞれの個人の問題には制度的な背景があり、制度を変えることで解決できる側面があるのではないか、と考えるのだ。

同じ仕事をしていても男性と同じように評価されないとき、それなら仕事のやり方を変えてみるとか男性より一層の努力をするとかいうのが自己啓発なら、性別で評価基準を変える必要はあるのかと考えるのがフェミニズムだ。「夜道は痴漢に注意」と言われて、できるだけ明るい道を選ぶのがサバイバル術なら、女性が夜一人で安心して出歩けない社会はおかしいと考えるのが、フェミニズムだ。

映画『サフラジェット(邦題:未来を花束にして)』に描かれたような女性参政権獲得運動に代表される第一波フェミニズムは、日本では明治末期から大正初期に婦人参政権運動として始まる(日本で女性参政権が認められるのは第二次大戦終了後の日本国憲法においてである)。さらに60年代、70年代の第二波フェミニズムは「個人的なことは政治的なこと」を唱え、ドメスティック・バイオレンスやセクシュアル・ハラスメントなどをも問題にし始めた。日本でも「ウーマン・リブ」と揶揄されつつも、DVシェルターの運営や性差別的なコマーシャルへの抗議、優生保護法改悪阻止運動などが繰り広げられた。それらの歴史を経て現在に至るまで、フェミニズムは「わたし」の問題から出発しつつそれを「わたし」に限定されない制度的不利益や不均衡の問題として問うてきたのである。

これはつまり、フェミニズムの根本には制度への不従順と怒りがある、ということでもある。これが二点目である。ネガティブすぎるように思えるだろうか?けれども、制度的な不利益や不均衡に直面しながらハッピーにそれに従うことを求められるとしたら、その方が奇妙ではないだろうか?

「フェミニストはキルジョイだ」と言ったフェミニストがいる。キルジョイというのは、場の盛り上がりに水をさし、空気に従わない人のことだ。仕事と子育ての両立に努めるだけではなく、時に「保育園落ちた日本死ね」と言い放つこと。女性ならではの仕事ぶりだねと褒められて、性別ではなく個人の努力ですよと返すこと。男性はそういうメイクや服装は好まないよと言われて、男性の好みはどうでもいいですと答えること。その場で何も言えなかったとしても、悲しいムカつくと感じた気持ちを、大人気ないとか感情的すぎるとかいう理由で、否定しないこと。

女性にはあまりにもしばしば笑顔が求められるけれど、辛かったり悲しかったりすることは誰にでもある。もしその辛さや悲しさの一端が制度的な不利益や不均等に起因しているのであれば、わたし達は空気を読むのをやめ不機嫌になっても怒っても良い。「わたし」の問題を制度の問題として問うとは、そういうことだ。

さらに、「わたし」の問題を制度の問題と繋げるということは、問題を考える際に「わたし」ひとりだけを念頭におくわけにはいかない、ということでもある。これが第三の点だ—「フェミニズムはみんなのもの」なのだ。そして、女性であることの経験は、性別に直接関係する制度だけに影響されるわけではない。

白人中流階級の外見や態度が女性性の基準となってきた国々で、白人中流階級女性が女性であることをどう経験するかは、有色人種や労働者階級の女性と、同じではない。異性愛女性にとっては男性の恋人との関係が女性であることの経験の一部分をなすことがあっても、非異性愛女性にとってそれは女性であることの経験とは何の関係もないかもしれない。誕生時に与えられた性別と性自認とが一致するシスジェンダーの女性は、トランスジェンダーの女性と常に同じ形で女性であることを経験してきたわけではない。

人種や階級、国籍、性的指向や性自認などの違いは、女性という共通の経験の上に付け足されるのではなく、性別をめぐる制度と交錯しつつ、複数の多様な「女性」を作り出している。インターセクショナリティと呼ばれるこの視点は、80年代の末にアフリカ系アメリカンのフェミニストであるキンバリー・クレンショーが提唱し、現代のフェミニズムにおいてその重要性がもっとも強調される点のひとつである。世界各地で数百万人が参加したと言われる今年一月のウィメンズ・マーチも、インターセクショナリティをその大きな特徴とするものだった。

これはつまり、人種や階級、国籍、性的指向や性自認などにかかわる制度を無視したまま、性別をめぐる制度を考えることはできない、ということでもある。女性の—あらゆる女性の—権利と尊厳とが尊重されるべきだと考えるなら、性別をめぐる制度と同時にそれらの制度をも問い直さなくてはならない。

この三点を達成するのは手に余る大仕事に見えるかもしれないし、実際にそう簡単なことではない。けれども、いわば努力目標としてのこれらの理念は、同時に、フェミニズムをより豊かに、より多くの人のものにする可能性を孕む、フェミニズムの希望でもあるのだ。


本論考は、以下のサイトに初出されたものです。 https://www.facebook.com/notes/shimizu-akiko/where-we-are-right-now-or-where-we-thought-we-are/2272381666119622/ WANよみもの編集局では、フェミニズムの議論をアーカイブとして残していくため、元のサイトに許可をいただき、転載しております。