いま、ツイッター上では「#トランスジェンダーとともに」「#ともにあるためのフェミニズム」というハッシュタグを付けた投稿が、静かな広がりを見せています。
 きっかけは同じツイッター上に現れたトランスフォビア(トランス嫌悪)言説でした。経緯については、堀あきこさんが「トランスジェンダーとフェミニズム ツイッターの惨状に対して研究者ができること」という記事で丁寧にまとめて下さっています。私たちジェンダー/セクシュアリティ研究者にとってショックだったのは、トイレや更衣室・銭湯などの話題になったとき、トランス女性を排除しようとする言葉が「フェミニズム」の語と一緒に語られたことでした。
 飯野由里子さんは「共に在るためのフェミニズム」全文をネットで緊急公開され、フェミニズムにとって二元論的思考への批判が大きなテーマであったことを述べた上で、「セックス/ジェンダーの二元論及び性別二元論が現実の世界の中で生み出している具体的な被害に目を向け、特定の人びとの生存を困難にしている現状の改善に参加することは、フェミニズムだからこそ、またフェミニズムであるがゆえに、挑戦しなければならない課題だ」と指摘します。本来であればトランスジェンダーと「ともに」あるはずのフェミニズムが、トランスジェンダーを排除する分離主義に陥ってはならないと、警鐘を鳴らしているのです。私も、堀さんや飯野さんをはじめ「#トランスジェンダーとともに」のハッシュタグのもとに集まり声を上げる、多くの研究者と同じ思いを共有しています。

 私にとって許せないのは、自分がゲイ男性だと公言する元参議院議員の松浦大悟氏が、トランス女性の更衣室等利用に恐怖を感じるシス女性の声を悪用し、トランスジェンダーへの排除や差別を煽るような発言をしていることです。遠藤まめたさんが「松浦大悟さんの「女湯に男性器のある人を入れないのは差別」論への疑問:野党批判のためにトランスジェンダーへの恐怖を煽るのか?」という記事で指摘する通り、松浦氏の主張は事実誤認に基づくものです。何より私が憤ったのは、松浦氏が「トランス女性」と「トランス女性を排除しようとするフェミニスト」という二項対立を仮構し分離主義を煽りつつ、しかも自らの姿を消す(どちらに批判が来ても自分に火の粉が及ばないようにする)という手法をとっていることです。
 そもそも、なぜトランス女性をトイレや更衣室から排除しようとする声が、一部の女性たちから上がったのでしょうか。もとをただせば性暴力(盗撮や痴漢などもふくむ)について、男性が加害者となり、女性が被害者となるケースが圧倒的に多いという日本社会の現状に行きつきます。今回のケースにおいて恐怖の対象となり、非難されているのはトランス女性ではありません。男性による女性への性暴力が無数に存在し、放置され、世の多くの男性がそれらを大した問題だと感じていないという状況こそが恐怖の対象であり、非難されているのです。
 トランス女性の話題が出てくるずっと以前から、たくさんの女性たちは男性からの性暴力を怖れ、公衆トイレや更衣室、銭湯や電車・バスなど、公共空間の利用を避けざるを得ない状況に追い込まれていました。こうした女性たちの痛切な声に耳を傾けず、女性専用車両に対して「男性差別だ」と的外れな批判を十年一日のごとく繰り返し、ポルノサイトに「痴漢」「盗撮」「レイプ」などのジャンルがあることに違和感を持たず、男性による女性への夥しい性暴力を放置・黙認してきた男性たちへの怒りが、トランス女性への恐怖心や排除といういびつな形で表明されているのです。
 つまり今回の件は「フェミニスト」や「トランス女性」の問題ではなく、男性に突き付けられた問題です。女性への性暴力をなくす努力を十分にしてこなかった、私たち男性の怠慢こそが問われています。この点について語らず、シス男性であり女性更衣室に入らない自分はまるで「第三者」「公平なレフェリー」であるかのようにふるまう松浦氏の言動が、私の目にはひどく不誠実なものに映りました。

 では松浦氏と同じシス男性のゲイである私にできること、すべきことは何でしょうか。一つは「LGBT」の言葉にこめられた、性的マイノリティの連帯を強く訴えることでしょう。私はこれまで、いくつかの理由から「LGBT」という言葉の使用はなるべく避けてきた一人ですが、今はこの言葉に込められた「連帯」を大切にしたいと考えています。
 ゲイ男性は「LGBT」や「性的マイノリティの連帯」などの言葉によって得られた果実のみを享受しつつ、実際には他の性的マイノリティの置かれている状況について無関心なのではないか、という批判は少なくありません。また森山至貴さんが『LGBTを読みとく』(ちくま新書)で強調する通り、かつてゲイ解放運動は同性愛の脱病理化を訴える過程で、トランスセクシュアルやトランスヴェスタイトの人びとを差別し、その抑圧に手を貸してしまった歴史を有しています。  

LGBTを読みとく: クィア・スタディーズ入門 (ちくま新書1242)

著者:森山 至貴

筑摩書房( 2017-03-06 )

 こうした歴史を反省し、性的マイノリティにおけるゲイ男性の一種の特権性を自覚しながら、性自認・性的指向にかかわらず、全ての人びとが排除されず、自分らしく生きられる社会をつくるために声を上げる。これまで公衆トイレや更衣室の問題で悩み、苦しんできたトランスジェンダーが、まさにそのトイレや更衣室などの話題を契機に、排除されようとしているという事態の重大さに対し、看過できないとの思いを抱いているゲイ男性は、きっとたくさんいるはずです。今こそ私たちは、暴力的な排除の言葉を自分自身に投げかけられた言葉として受け止め、それに抗い、「トランスジェンダーとともに」あることを強く宣言するときなのです。

 そしてもう一つ必要不可欠なのは、あらゆる性暴力を許さない社会を作り上げるための不断の努力です。先述の通り、現在の日本において圧倒的に多くの性暴力は男性を加害者として、女性を被害者として起こっています。こうした現状を直視し、全ての人の性的自由は守られなければならないこと、それを脅かす性暴力やセクハラは決して許されないことを、男性である私たちが強く主張しなくてはなりません。なぜ自分は性暴力の被害にあうことに過度に怯えず日々を過ごせているのか、なぜ盗撮カメラの存在をほとんど心配せずに公衆トイレや更衣室を利用できているのか、なぜネット上に突然現れるポルノ広告を何も見なかったかのようにスルーできるのか、トランスジェンダーのイシューについて他人事のようにふるまえるのは一体なぜなのか。これらの問いの背景にある男性の特権性を見据え、ジェンダーの非対称な構造をなくす努力をし、あらゆる性暴力を許さないと男性が決意し、声を上げることがきわめて重要なのです。
 私はこれまでジェンダーを研究する男性として、自分が踏まれている足よりも「自分が踏んでいる足」について、可能な限り考えるようにしてきたつもりです。性暴力についても同様で、ジェンダー論の授業などでは(男性という優位な立場にある自分がジェンダー論の授業を担当することへの居心地の悪さを常に感じながらも)「男性が加害者にならないこと」に焦点をあてて説明してきました。それでも「何を言おうが、お前が男性である限り信用できない」と批判されることもあります。そんなとき私は、そうだろうな、と感じます。私にできることは、次の世代の人たちがこうしたちょっと悲しい対話をしなくて済むよう、努力を積み重ねることだけです。
 私はジェンダー研究者として、性的マイノリティ当事者として、フェミニズムから多くを学びました。フェミニズムは当事者である女性の権利獲得と同時に、性についての社会的公正を求める運動です。性的マイノリティの権利獲得運動もここから多くのことを学んできており、私もそうした先人たちの並々ならぬ努力によって拓かれた地平に存在しています。
 だから私も飯野さんの言葉の通り、フェミニズムこそがトランスジェンダーを支える大切な存在だと信じています。そもそものほころびの原因は男性にあるのですから、両者の結び直しのために男性である私たちがすべきことはたくさんあるはず。その最初の一歩の掛け声こそが「#トランスジェンダーとともに」なのです。


本論考は、以下のサイトに初出されたものです。http://www.reddy.e.u-tokyo.ac.jp/act/essay_serial/maekawa.html#20190123
WANよみもの編集局では、フェミニズムの議論のアーカイブとして残していくため、元のサイトに許可をいただき、転載しております。