10月25日金曜日に上映された第三夫人と髪飾りと上野先生のトークショーに母を誘って参加してきました。母を誘ったのには理由があります。

 母は19歳のころ、保険の外交員をしていた実母に契約成立の引き換えとして、俗にいうチンピラと無理やり結婚させられた過去があります。また、母はその前後に非常につらい目にも遭っていたことをつい最近知りました。そんな家父長制の犠牲者のひとりである母にとってこの映画は何か示唆を与え、のちのち、母がつらい過去を振り返った時に励みになるかもしれないと思った為です。

 私はというと、高校1年生のころから上野先生の本に夢中になり、大学では、ジェンダーと人類学に没頭し、大学院を修了して現在、社会人として民間企業に勤務しています。会社では、同僚や先輩たちは婚活に余念がなく、話題はいつも当然ながら結婚話です。しかし、私は結婚する気はさらさらありません。それを言うと、皆「結婚しないなんて変よ。」「ちょっとおかしいんじゃない(笑)」等、馬鹿にします。また、セクハラをしてくる男性もおり日々、女性であるが故の息苦しさを感じています。そのような中で、自分自身のあり方を今一度考えたいと思い、映画館に足を運びました。

 第三夫人と髪飾りを鑑賞して、印象に残ったシーンは主に2点あります。1点目は、主人公のメイが初対面の夫と初夜を迎えるシーンです。私は、このシーンのメイが母と重なりました。望まない相手との苦痛を伴うセックスをしなければならない屈辱、悲しみ、諦めを見たような気がしました。メイは、セックスの最中でしょうか。月を見ていました。故郷の父母、兄弟姉妹、友人、相思相愛だった人のことを思っていたのかもしれません。母も同じだったかもしれない。そう思うと、胸が締め付けられました。男性が結婚によって、そしてセックスによって女性の身体を支配しようとうする様が画面全体に溢れているように感じ、とても恐ろしく感じました。

 2点目は、ラストの姉妹の妹が自身で長い髪を切るシーンです。女性の髪というのは、分かりやすい女性性の象徴のひとつであるはずです。それを切るということはどういうことでしょうか。私は「家」から離れ、自分で決めた道を歩んでいくという力強い意思表示だと解釈しました。姉妹の妹は、自分の母、メイ、近いうちに見知らぬ男性と結婚する姉、そして近い将来同じ道をたどるであろう自分を見て、勇気ある決断をしたのでしょう。3、4世代前のベトナムに「フェミニズム」や「ジェンダー」といった言葉があったかは分かりません。しかし、言葉はなくても、経験から得たフェミニズムの芽は確実に芽生えていたのかもしれないと思いました。私の母も同じです。母は、フェミニズム、ジェンダーについて学問的に理解しているわけではないかもしれませんが、過去の経験という土壌からフェミニズムの花を咲かせようとしているのではないかとふとした瞬間に感じることがあります。

 映画が終わった後、母は特に感想などは言いませんでしたが、女は昔からいつも虐げられてきた。それがどこの国でも根本的に変化しないことが悲しい。またこういう映画(性暴力やジェンダーについて考えさせられるもの)があれば教えてほしいと言っていました。具体的にどこのシーンについて何を思ったかということはわかりませんでしたが、確実に母の心に何か残るものがあったようです。

 私は最初この映画は、家父長制に鋭く切り込むものなのかと思っていました。しかし、それだけではありませんでした。映画を観た私たちひとりひとりが家父長制をどのように考え、闘っていくべきかを考えさせるものなのかもしれないと思い直しました。そう思うと、会社で、「どうして結婚したくないのか」と聞かれ、へらへらしながら、「うーん、ちょっと結婚は重いから嫌で・・・。」と濁していた今までの私が非常に恥ずかしく感じました。映画の姉妹の妹ではありませんが、16歳の時に抱いた、男性の性欲のために永続的に身体を所有される耐えられない気持ち、これを持ち続けていてもいいのだ、思想に自信をもってもいいんだと思うことができました。