このたび、石上さんの記事を読み、なによりも抱いた疑問は、この記事はいったい誰に対して、どのような意図をもって書かれているのか、ということです。この記事には、まったく資料がつけられていませんので、わたしのようにtwitter でのトランスジェンダーをめぐるやりとりをあまりフォローしていない者には、主張が基づいているであろう事実確認ができません。とはいえ、WANサイトでこの記事を読む人がすべて、記事が基づいているであろう様々な言動を知っているわけではありませんので、ただこの記事のみをテキストとして読んだわたしなりの理解と、このテキストからわたしが受け取った含意に対する見解を述べたいと思います。
「私たちが求めているのは、自由でオープンな議論」とありますが、この記事を虚心坦懐に読めば、そのような呼びかけを裏切る含意が込められているように思えてなりません。
わたしは、「トランス女性に対する差別と排除とに反対するフェミニストおよびジェンダー/ セクシュアリティ研究者の声明」の呼びかけ人になっているものの、これまで自分自身では、積極的に発言をしてきませんでしたし、SNS上でのやりとりに介入することもしてきませんでした。
その理由は、1. とりわけSNS上で交わされている議論を丁寧にフォローしているわけではなく、どのような発言が誰によって、いかなる文脈でされているかを理解していないこと、2. すでに、トランスジェンダーをめぐる議論は、当事者の方はじめ、研究書としても読むべき論考は発表されており、むしろわたしはそこからトランスジェンダーをめぐる議論を学んでいる側であること、3. 以下本稿のなかで触れるように、わたし自身がLGBTQとして括られがちなレズビアンであり、自身の経験に大きく引きずられ、他の視点に気づかなかったりしがちで、現状や論点をしっかり見極める自信がなかったからです。
そうであったにもかかわらず、今回この記事に対して、わたしなりの批判を加えたいと考えたのは、この記事が喚起しようとするメッセージはいったい何なのかと考えさせられざるを得ないがゆえに、1. 本記事が、とても慎重に熟慮のうえに書かれているとしたら、文章の稚拙さや、文章内の遂行的矛盾も含め、極めて悪質だと思うこと、あるいは、2. 石上さんが、ご自身でTERFという言葉について学ばれる途上で、不安や恐怖を抱かれて、どうしてもみなでそのことを議論したいと思われたうえでの投稿であったとしても、なお、そこに差別の力学が働いていることを指摘すべきだと考えたからです。
以下に、1. なぜ、極めて悪質だとわたしが考えるのか、2. 差別とはなにか、どのような働きかなのかを示し、最後に、3. 石上さんがおっしゃるように、「自由でオープンな議論」にむけて、なにを今考えるべきかについてを若干の私見を述べさせていただきます。
1. 装われる稚拙さと、遂行的矛盾によって惹起される恐怖
わたしは、本記事を読めば読むほど、説明すべき文脈や根拠をあえて示さず、一文に多くのことを書き込むことで(稚拙な文書のように見せかけることで)、はじめてTERF といった言葉を知る人や、これまでトランスジェンダーの権利について深く考えたことがない人たちに対して、トランス恐怖を与え、差別意識を植えつけるようなしかけがあるように思えてなりません。
また、各パラグラフをよくよく比較してみいると、パラグラフ毎に主張が少しづつずれているどころか、矛盾したメッセージを含めることで、現在の焦点であるはずの、トランスジェンダーの差別を解消し、その権利をどのように実現していくかという問題の本質を覆い隠す効果を生んでいるのではないでしょうか。そして、記事の真意は、トランス女性は、なるべく本物の女性がいるところにはいないでほしい、それどころか、そもそもトランス女性は、危険な人なのだと訴えているようにみえます。言葉遣いは丁寧な文書ながら、トランスジェンダーの人たち、直接的にはトランス女性に対して、本物の女性が抱えている不安や恐怖を理解していないと決めつけているようにさえ読めます。
1-a. トランスジェンダーの権利を訴える人を、犯罪者であるかのように描く
記事の冒頭、フェミニストであることが宣言され、あらゆる差別がなくなり、みなが安心できる社会を求めていることが述べられた直後、「私たちはなぜか」TERFと呼ばれ、そう呼ばれることは、「殺せ、犯せ、殴れ」という脅迫に曝されることであるかのように描写されています。ここは、TERF とはどのような歴史を経て生まれた言葉であるのか、TERFと「殺せ、犯せ、殴れ」といった言葉を、誰がどのような文脈で一緒に使用するのかを、説明すべきところです。
なにより、他者にそのような言葉を投げかけることは、脅迫、あるいは犯罪教唆に他なりません。そうした言動をとる人は、厳しく非難され、あるいは告発されるべきですし、その罪は、そうした言動をなした個人にこそ帰せられるべきであり、トランスジェンダーの権利とはなんら関係がないはずです。ところが、石上さんは、自分はトランスジェンダーの人たちと平和的に共存したいと願い、「トイレや風呂」など、ほんの少しの場所で安心して過ごしたいと訴えているだけなのだ、トランスジェンダーの人たちには、そこを理解してほしいと続けます。これでは、冒頭から、トランスジェンダーの人たちは、共存したいと考えている平和な私たちを、「殺せ、犯せ、殴れ」といっていると、石上さんが考えているようではないでしょうか。
1-b. セックスとジェンダーの二元論の強化
記事ではそのような用語は使用されていませんが、ジェンダー構造やジェンダー規範については、引き続きフェミニストとしてその影響を批判するとしながらも(「社会的・文化的につくられた性役割は・・・すべての人間を苦しめる」)、ジェンダー・アイデンティティ(性自認)をその構造から切り離して論じることで、その後につづくJ.K. ローリングの発言とあいまって、あたかもセックスが現実/ 物質に他ならず、ジェンダー・アイデンティティは〈単なる意識〉にすぎないかのように論じられます。なぜかTERFと呼ばれるようになってしまったと訴える石上さんは、ここで、ジェンダー・クリティカルという、近年の欧州諸国におけるジェンダー承認法を批判する議論に言及しています。このことから、ジェンダー・アイデンティティを〈単なる意識〉として軽視し、生物学的/ 解剖学的な身体のみが現実であり、そこに意味を与え、基盤そのものを作り変えていく力もあるジェンダー規範のもつ構築性を軽視する傾向が読み取れます。
しかし、ジェンダー構造や規範と切り離しがたく、自身の身体に統合性を与え、セックスに物質的な重みを与えているものこそが、ジェンダー・アイデンティティだとしたら、「生理のある人を女性と呼べないのはおかしい」という影響力のある著名人の発言をここで繰り返すことは、日本のように厳しいジェンダー規範のなかで、生まれたときに与えられた身体にもかかわらず、男性だと自覚してきた人を〈本物ではない〉と切り捨てることになるのではないでしょうか。ここまではトランス女性の議論をしてきてはずが石上さんは、ここではトランス男性についての議論を混在させることで、「生理のある人」こそが「女性」であるという主張をしているかのようです。
フェミニズム理論において、多くのフェミニストたちが蓄積しながら論じてきたはずの、ジェンダー規範のなかで生まれる言説・社会的現実がいかに、わたしたちの身体や自然を作り上げてきたのかという重要な議論が、ここでは否定されてしまっています。
1-c. トイレ問題/ 安全問題
石上さんは、「女性トイレをはじめとした女性専用スペース」を、戸籍変更して暮らしている--すなわち、性転換手術をした――女性、これまで女性として生きてこられたトランス女性なら使っても構わない、ただ、「ペニスを付けた男性が女性風呂に入ることは、耐え難い」とおっしゃります。おそらく、このような発言は、石上さん以外からも、この社会では何度も繰り返されてきたのだろうと想像できる発言です。しかし、トランス女性にとって、自身にとってまさにプライヴェートな空間に入ることが、誰かに「構わない」と許容されなければならないとしたら、それはどれほどの苦痛でしょうか。また、「これまで女性として生きて」くることが難しかった、つまり、ジェンダーによる男女の振り分けが厳しい現実に曝され、女性として認められないのではないかと悩んできた人にとって、プライヴェートな空間から排除されることが、彼女たちの尊厳をどれほど傷つけることになろうかと危惧せざるを得ません。
なによりも、記事全体では、トイレが争点とされながら、わたしも呼びかけ人のひとりである「研究者声明」の発端となったお茶の水女子大学のトランス女性受け入れに対しては、賛同するかのような言及の仕方がされています。しかしながら、そこでは、あえて石上さんの真意が隠されているようにも感じられます。女子大学に入学する女性たちはすべて、トイレも更衣室も同じであることが当然でしょうし、部活動などでは、お風呂も一緒だということが前提とされるでしょう。そして、現在その大半の受験生が未成年であることから、ほぼ全ての学生にとって、適合手術を受けることは不可能なのです。
1-a. のところで論じましたが、トランス女性に対して、性暴力の被害にあいやすい女性たちのために安全を訴えることは、そのレトリック上の効果として、トランス女性が女性の安全を脅かす存在であるという含意が避けられません。
2. 差別とはなにか
ここからは、なぜTERF と呼ばれるのか分からないという石上さんに対して、わたしが石上さんの記事からどのようなことを想起したのかという話をさせてください。すでに触れたようにわたしは、2018年自民党衆議院議員の杉田水脈氏による、同性愛者を差別する記事に対して、抗議の意味を込めてレズビアンであることをカムアウトしました。LGBTQとして括られるとはいえ、わたしの経験とトランスジェンダーの人たちの経験が同じであるとか、あるいはわたしの経験がレズビアンを代表するといったことを、言おうとしているわけでは決してありません。ただ、それでもなお、日本社会から排除され、抗議の声をあげることに長年躊躇し、抗議した後も、差別を受け続けているわたしが、この記事からなにを受け取ったかについて、お伝えすることには意味があると思います。
2-a. 差別発言の効果
石上さんの記事を読んで受けた衝撃のありかを考え、幾度か記事を読むうちに、わたしは自分自身のいくつかの経験を思い出しました。
わたしは、兄がいたことも影響してか、幼い頃は、そのうち、おちんちんは生えてくるものだと信じているような子でした。男の子によく間違えられ、決して男の子ではなかったので恥ずかしくもあり、苦痛でもありましたが、だんだんと自分の身体が女体として成長することにも違和感を抱き始め、初潮を迎えた日は、その日付まではっきりと覚えています。おちんちんが生えてくると信じていたその幻影は、二〇代まで続いていたように思います。現在では、フェミニストとして女性である自分を喜んで受け容れることができますが、もし青年期に、性同一性障がいという言葉に出会っていたら、自分は間違った身体に生まれたのかもしれないと、おそらく当時とは異なる悩み方をしていたに違いありません。
現在自分の体を受け容れられているのは、しかし、社会からのまなざしが恥ずかしく、苦しんだ末、何か――男になりたかったわけではないので、自己を追い求めること、くらいでしょうか――を諦めてようやく、社会的に安定した生活を送れるようになったからに他なりません。ですから、わたしの身体をめぐる経験とジェンダーアイデンティティの関係は、Sex is real といった言葉ではとても表現できないものですし、身体という物質に先立ち、わたしのジェンダー・アイデンティティは、自分の身体にはないものを投影し、あるものを拒絶していたともいえます。
もちろん、自分の身体をめぐっては人それぞれに、違和感を感じたり、こうなればいいなぁと理想像を投影したりするものです。ですが、わたしの経験から想像するに、トランスジェンダーの人たちのその身体との付きあい方は、わたしの経験とは程度の差に還元できない、大きな断絶があるように思います。その経験を想像してみようとすることすら、傲慢であるとわたしは考えます。
大学生時代には、何人かの友人、知り合いにレズビアンであることを伝えました。そのなかで、〈えっ、わたしを襲わないでね 苦笑〉といった発言に何度か曝されました。今なら、そうした発言は、想像力のない社会とそこに生きる異性愛規範に縛られた人たちの無理解であると、笑い飛ばすことができます。しかしながら、当時のわたしは、身近な人から投げかけられるそうした発言を、抗議したり怒ったりするどころか、むしろ、〈そうだよね、だから人に伝えるのには、細心の注意を払おう〉と、やり過ごしました。いま、トランス女性をめぐって、トイレ・更衣室・浴場が争点であるかのようにフレームアップされていますが、かつて同様の事態が、同性愛者にとっても起こっていたことを、「府中青年の家裁判」から、わたしたちは学んでいるのではないでしょうか。
このように、普段忘れて/ 封印して過ごしている過去の経験を、突然想起させることが、わたしは差別発言がもたらす効果がもつ特徴の一つだと考えています。わたしたちの言葉には、その言葉を共有する共同体に投げ入れられ解釈されて初めて意味をもつために、単なる媒介手段ではなく、折り重なる意味と経験と歴史を運ぶ重みがあります。一つの言葉に内包される意味や文脈は、その言葉が背負っている共同体の歴史が反映されます。だからこそ、差別発言は、差別を受けている者に対して、差別されてきた者たちがこれまでも、そしておそらく今後も受けるであろう差別を痛感させます。
差別発言が差別的であるゆえんは、そこで発せられる言葉が示す共同体のなかに、差別されている者たちが(対等な人として)存在していないということを表明する点にあります。そして、差別された者は、その発言に込められた共同体から締め出されていることを改めて――差別されている本人は、そもそもその共同体に自分は属していないとされていることを実感しながら生きています――突きつけられ、誰とも共有できない、その身体とともに一人、自分だけの世界にとり残されます。さらに、急いで付け加えれば、その唯一残された身体こそが、自分を拒絶しているとしたら、これほど悲惨なことはあるでしょうか。
石上さんの記事、とりわけそのタイトルの「排除しているわけではない」は、そもそも、自分が生きている社会から排除されてきた/ いる者たちにとって、彼女たち・かれらの抱えている現実を認めない、とうい宣言に他なりません。いくら、誰かに〈私たちは、あなた(たち)を排除している/ 差別しているわけではない〉と伝えられても、厳然とした差別構造がなくならないかぎり、差別は終わりません。排除している/ 差別しているわけではないと宣言できる人がいるとすれば、日本社会に深く根ざしたこの差別構造を変革しようと努力している者たちだけではないでしょうか。石上さんがフェミニストとしてそのような努力をされているであろうことをここで否定しているわけではありません。ただ、記事からは、そうした努力は読み取ることができませんでした。
2-b. 差別とは何か
2-aで述べたことは、わたしがカムアウトした後、気持ちと体が落ち着いた頃、寄稿の機会を戴いた雑誌『Over』の第二号(2020年)で執筆した、「差別が差別と認識されない国に生きてきて」という拙論でもすでに触れたことです。ここでは、繰り返しを怖れず、差別とはなにかについての私見を述べさせていただきます。拙稿では、わたしは自分が学んできたフェミニズム理論に即して、つぎのように論じました。少し長くなりますが、引用します。
公的領域と私的領域の境界設定、そしてそこに生きる具体的個人の選好に多大な影響を与える力こそが、「政治的なるもの」だとして、フェミニストたちは批判的に考察してきた。その考察から明らかになる差別とは、公私の領域設定に都合よく想定される「主体」から(潜在的に)「逸脱」する存在に対して、社会的な制裁を与え(られるという脅威によって、「逸脱」を阻止し)、その結果沈黙を強い、ときに暴力的に/ 強制的に公的な資格をはく奪し、自由を奪い、構造に適応した多数の者とは同等の価値がないと貶めることである。社会構造上、その――可能性に満ちた――生を生き抜くことが想定されていない者たちが存在している、それこそが差別の根幹である。そして、レズビアンであるわたしは、そう自認してからずっと、日本社会でその差別を生きている。すなわち、差別は社会問題なのだ[前掲、14頁]。
わたしは、差別とは社会構造の問題であって、個人の悪意や意識、理解力は二次的な問題だと考えています。わたしに、〈えっ、わたしを襲わないでね〉と思わず口にした人は、悪意があったわけではなく、また、その後、レズビアンであるわたしとの関係を切ることもありませんでした。彼女は、レズビアンの友人を得て、レズビアンへの偏見を少しは解くことになったかもしれません。ですが、彼女の悪意のない発言は、この日本社会が、そもそもわたしのような存在に対して、生きる価値や尊厳を認めていないがゆえに発せられたのであり、彼女がいくらわたしの苦い経験を理解してくれようとも、〈わたしは、あなたを排除しない〉と受け容れてくれようとも、一時の慰めにはなったとしても、わたしの生が彼女と対等なものになるわけではありません。
杉田議員も、自らの差別記事が批判されると、差別するつもりはなかった、辛さは理解しているつもりであるといった趣旨の弁明をしました。しかし、彼女が国会議員であるならば、この社会で対等な構成員として認められない人を生み、その者たちから幸福を求めて生きる権利を剥奪する現在の社会構造を変革するために、その権力を使うべきです。そうでないとすれば、杉田議員は、決して、〈排除しているわけではない〉と言えないはずです。
2-c. ではなにが、論じられるべきか
石上さんは、「すべての差別がなくなり、みんなが安心して暮らしていける社会を求めて」この記事を書かれました。フェミニストとして、わたしも、そうした社会を求めています。そのために、女性が性暴力に遭いやすい、というよりむしろ、性暴力が許容されている日本社会を、根本的に変革する必要があると考えて、自分のできる範囲で努力しているつもりです。女性に対する嘲笑や差別発言、蔑みが商業的に流布されるような現状を変えていくには、わたしたちの意識だけでなく、まさに社会を構成している、さまざまな法制度や慣習、そしてわたしたちの先入観/ 偏見を正していかなければなりません。
この社会が、民族差別、人種差別、女性差別、性差別、その他さまざまな差別によって、多くのマイノリティを生み、排除し、差別し、しかも暴力に対して鈍感であることを前提に、たとえ迂遠に思えても、その差別の構造を一つひとつ変革していくことから、わたしたちは始めるしかないのではないでしょうか。近年の女子大学の取り組みはそのひとつであり、公文書における性別記載蘭の見直しや、とりわけ、トランス・ジェンダー差別・排除に抗議する運動をされている人々の動きは重要であることは言うまでもありません。少なくとも、トイレや更衣室、浴場が問題の本質ではなく、差別や排除にいま直面しているひとたち、あるいは性暴力の被害に苦しむひとたちと共に、この構造と闘う態勢を整えることに力を傾けることが、いま必要なのではないでしょうか。
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