
陽の当たらなかった女性作曲家たち、シリーズV第9回はマリア・アンナ(通称ナンネル)・モーツァルト(Maria-Anna Mozart )をお送りします。言わずと知れたW.アマデウス・ モーツァルトの5歳上の姉で、1751年にオーストリアのザルツブルグで生まれ、1829年に同地で亡くなりました。父レオポルドはバイオリン奏者として宮廷楽団に仕えながら作曲もし、加えて腕の良い指導者でもありました。 母アンナ・マリアは、結婚後の約10年をほぼ出産に費やし、7人の子供を産みました。このうち元気に育ったのはナンネルとアマデウスだけでした。
ナンネルは7歳で父の指導の下、ハープシコードを始めました。めきめきと上達し、父は自作の「ナンネルの音楽帳」と題した作品集(教則本)を娘の指導に使いました。13歳にして”ヨーロッパで最高の実力派の一人”と父が認めるほどに成長しました。傍ら、弟モーツァルトは8歳で姉の手ほどきで音楽を始め、父に本格的に教わりました。姉弟はふたりだけに通じる言語で話すほど親密で、ふたりとも父自慢の神童に育ち、一家でヨーロッパ各地をツアーで回りました。
ツアーは1762年に始まり、訪れた先はミュンヘン、ウィーン、プラハ、ロンドン、パリ、オランダと数限りなく、途中、軽い病気をしたりトラブルもありましたが、評判が評判を呼び1768年まで続きました。
ザルツブルグで1年の休養ののち、父と息子はイタリアへツアーに出かけました。これ以降、姉ナンネルは実家にとどまり、母を助け家事に従事しました。18世紀の社会通念上、女の子は結婚適齢期を迎えると公の場の活動を控え、結婚後は良妻賢母が当たり前の姿でした。
モーツァルト家の場合は、父が子供たちのツアーに帯同したことから、宮廷音楽家としての収入は不安定で、代わりに息子モーツァルトのツアーは大きな収入源となり、片やナンネルは実家で母の家事を助けつつ、父親の秘書役、弟の楽譜整理役などに従事し、労働力として大事な人材だったため、父は娘の結婚を積極的に望まなかったのです。ナンネルは意中の人に出会い、経済的にも安定した役人だったにも関わらず、父が労働力を失うことを恐れて結婚に反対しました。
現在の音楽学者たちのリサーチにより、ナンネルの日記や資料を読み解くと、ナンネルの演奏の方が実力があると評する聞き手もいたほどナンネルには才能がありました。密かに作曲もしていましたが、父が世間に出すことを許さなかったというナンネル自身の文章も残っています。
フェミニストで音楽学者のエヴァ・リーガーによると、家父長的な時代の下、とりわけ父レオポルドは支配的な性格で家族を束ねていた上に、各地で名声を得るほどの神童を2人も育てた自負や強い権威を掲げ、また、それが当たり前に容認される時代でした。
一方ナンネルは従順に生きることに慣らされていて、また、当時の社会通念~女性は自己犠牲を払うこと、謙虚で礼儀正しく神の下に敬虔に生きることが美徳とされていたので、すべての家族が父の考えや事情に合わせて生活を送りました。
母親が1778年、ナンネルが27歳で亡くなったため、益々父は家事労働者としての娘を手放したくなく、加えて弟は父との衝突の果て独立しウィーンに移ったため、ナンネルはいささか情緒不安定な父を残して家を出られなかったという記録もあります。
実際の結婚は、1784年、ナンネル33歳の時です。夫となった人は2度の結婚歴のある3人の子持ちで、ナンネル自身は子供をひとり産みました。夫は法曹界のエリートで、後年は貴族の称号を得たため、ナンネルも男爵夫人の称号を持ち、経済的には恵まれた生活を送りました。
結婚生活は、夫の赴任地サンクト・ギルゲン(St.Gilgen)でした。ザルツカンマーグードの風光明媚な土地で、母の出身地でもありましたが、当時はザルツブルクから6時間ほどかかりました(現在は車で30分ほど)。家庭を切り盛りし、責任をもって継子たちを育てました。唯一の実子レオポルドは、ザルツブルグの父が第二のモーツァルトを育てたいという希望のもと引き取ったため、ナンネルは息子にめったに会えませんでした。

ナンネルが結婚生活を送ったサンクト・ギルゲンの光景

ザルツブルグにあるモーツァルトの家「レジデント」

ただ、家事に従事する忙しい毎日でも、決して音楽を手放すことなく、ピアノの先生業や自宅を開放したサロンコンサートの主催等、生涯にわたって細々でも音楽に接し続けました。1801年の夫の死後も当地で穏やかに暮らしましたが、最終的にはザルツブルグに戻り78歳の生涯を終えました。
「私だって弟と同じく音楽を続けたかった」という思いが一生付きまとったという記録が残されています。それでも1791年の弟の訃報を嘆き悲しみ、弟の才能を生涯尊敬し、姉弟の精神的な絆は変わることはありませんでした。父が結婚を反対した弟の妻コンスタンチェとは、父の存在ゆえに距離があり、また地理的な距離もあったので接点も薄かったようです。
同じくオーストリアのM・マルティヌス(1744–1812)、 は、毎日のように皇后マリア・テレジアの音楽のお相手に宮殿を訪ねていました。近くの教会の定期コンサートは人気を博し、時にはイタリアまで演奏旅行に出かけました。並行して実家の中心的存在として家事を切り盛りし、女性は宮廷音楽家になれませんでしたが、ナンネルよりずっと音楽活動を中心に生涯を送った印象を持ちます。ウィーンで音楽仲間だったモーツァルトが彼女の作品のフ
レーズを自身の作品に借用もしました(盗用ではない)。
ひとつ後の世代ドイツのファニー・メンデルスゾーン(1805-1847)は、大銀行家ファミリーの出身で、父は弟フェリックスを音楽家にする希望はあれど、姉は父の考えにより音楽家の道は閉ざされました。それでも、メンデルスゾーン家の華麗な人脈によるサロンコンサートは、計画から招待客の選定まで、彼女がホストとして活躍しました。画家の夫と結婚した背景には父親への反発があったと言われていますが、妻の音楽活動を全面的に支えた夫との結婚で数多くの作品を残しました。
以下の録音は、NY モルガンライブラリーのオンライン展示で紹介された ナンネル・モーツァルトに帰属する3つの鍵盤作品断片をもとに、 筆者が音源を参照して採譜を行い、演奏したものです。 これらの断片はザルツブルクの Mozarteum Foundation Salzburg が所蔵する自筆資料に由来し、オンライン展示のために提示された音源を参照しています。
出典)
NYモルガンライブラリー ナンネルの日記
Nannerl’s Diary | The Morgan Library & Museum
The Mozart Family: Four Lives in a Social Context. Ruth Hallowell. Oxford University Press.1998.
ザルツブルグで設立された女性作曲家たちのためのマリア・アンナ(ナンネル)・モーツァルト財団
Maria Anna Mozart Society - Maria Anna Mozart Society
4手連弾のためのソナタ作品K.381
弟モーツアルトが姉と弾くために書いたとされている4手連弾作品。ナンネルが草稿を持っていたとされています。2人の女性ピアニスト、ピリスとアルゲリッチの名演です。
https://x.gd/DZX8B









