今も昔も、売春防止法問題をめぐる議論に欠けているのは、「売春をしている人が、それをやめたとして、どうやって食べていくか」という点だと、私は考えている。

近年、「セックス・ワーク」を労働と位置づけ、その労働者としての権利を守ろうとするセックス・ワーク論は議論され始めているが、売春をやめる人の生活は、どのように守るのだろうか。
たとえば、10代から売春を続けて35歳になった人が、それをやめようとした時、どのような選択が可能なのか。
その選択肢を広げるために、地域社会には何ができるのか。
こうした一人ひとりの人生にかかわる具体的な問題についてこそ、法改正に先立ち、社会全体で議論を深める必要がある。

現在、議論の焦点となっているのは「買春処罰」だが、1956年の売春防止法制定当時の女性国会議員たちも、買う側の男性に対する処罰を強く求めていた。

一方、赤線で働く女性たちが切実に求めていたのは、生活保障だった。
しかし、国会審議では、そうした当事者の要求に十分に応えることよりも、「国家による売春公認を否定する」という理念が優先された。
女性たちの「更生」のための婦人保護施設は設けられたものの、予算や受け入れ体制は不十分で、現場は混乱を極めた。

売春防止法が完全施行されたのは、制定から約2年後の1958年4月1日である。
それに先立つ3月15日の夜、西日本各地の赤線では、一斉に廃業が行われた。

その前日の3月14日のことである。
特飲街で働いていたAさん(以下、仮名)が、藪の中の松の木で首をつり、自ら命を絶った。
37歳だった。
彼女は、2月21日まで、小倉市の特飲街で働いていた。
赤線の廃止で従業婦をやめ、3月10日に出身地の都城市に帰ったが仕事がなく、再び小倉へ戻ったものの、やはり仕事を見つけることができなかった。
彼女の遺体は、3月16日、北九州の戸畑市(当時)で、地元の中学生が発見した。

翌日の3月17日には、米子市の海岸で、28歳の元従業婦のBさんが水死体となって見つかった。
彼女は京都市出身で、米子の特飲街で住み込みの従業婦をしていた。
赤線が廃止されても、実家に戻れない事情があった。
そのため彼女は、当時、自殺によく用いられていた催眠剤のアドルムを大量に飲み、入水自殺をしたとみられている。

この2つの事件は、当時の『西日本新聞』で報じられていた。
私が偶然見つけた記事にすぎないが、こうした元従業婦の自死は、他にもあったのではないかと考えられる。

亡くなった女性たち自身の言葉は残されていない。
しかし、その死は、私たちに重い問いを投げかけている。
売春防止法が制定され、婦人保護施設での「保護」が始まろうとしていたまさにその時期に、彼女たちは自ら命を絶った。
その死には、当時の政策やそれを支持した社会に対する抗議が込められていたのかもしれない。
だが、彼女たちが何を訴えたかったのかを、今となっては、確かめることが難しい。
それでも、これからの政策のあり方を考えるとき、私は、彼女たちが抱えていたかもしれない悔しさや悲しみに思いを寄せることから始めたい。

AさんやBさんは、何に殺されたのだろうか。
直接の引き金となったのは、売春防止法施行に伴う失職だった。
だが、それだけではない。
注目したいのは、亡くなる直前の彼女たちが、実現困難な「帰郷」を迫られていたという事実である。

赤線廃業後、元従業婦たちに残された主な選択肢は「転業」か「帰郷」だった。
しかし、転業は、その資金も準備期間も足りず、容易には実現できなかった。
そうした事情を知る警察は、彼女たちが「偽装転業」によって売春を続けることを警戒し、監視を強めていた。
「偽装転業」とは、赤線業者らが旅館業などに転業したように装い、実際には売春業を継続することを指す。
警察はこれを防ぐため、元従業婦を、まずは郷里に帰そうとした。

しかし、彼女たちの多くは、赤線で働く以前から、家族との関係や地域社会での居場所を失っていた。
そもそも、帰る場所などなかったのである。
一度は郷里に戻ったものの、数日後には赤線に舞い戻り、元の店の経営者に「働かせてほしい」と泣きついた女性もいたという。
それでも警察は、赤線廃止を徹底するため、彼女たちの生活基盤の脆弱さに配慮せず、「帰郷」を迫った。
彼女たちを追い詰めたのは、単なる失職ではない。
帰る場所も、新たに生きる場所も保障しないまま、赤線から立ち去ることだけを求めた社会のあり方だった。

元従業婦についての公的な調査記録としては、労働省婦人少年局による実態調査の報告書がある。
たとえば『売春婦の転落原因と更生の問題 実態調査結果報告』(1958年)には、全国の統計調査の結果だけでなく、当事者への聞き取り調査に基づき、具体的な事例が記載されている。親許について詳しく調べた『売春婦の親許調査報告書―山形・鹿児島―』(1954年)も重要である。
これらの資料のデータは、女性労働協会の行政資料デジタルアーカイブから入手できるので、元従業婦たちが、どのような状況に置かれていたかを具体的に知りたい人は、参照してみてほしい。
https://www.jaaww.or.jp/history/data/09025.pdf
https://www.jaaww.or.jp/history/data/23027.pdf

前者は売春防止法制定後に発行されたもので、赤線従業婦たちの「更生」に対する意識、つまり、彼女たちが売春防止法の理念に対して、どのような姿勢を示したかについても調査され、その結果が掲載されている(23頁)。

調査対象者は1313名で、そのうち、「更生」に肯定的な「更生の予定あり」と「更生したい」を合わせると、約半数だった。
「(売春を)やれる間は続けたい」または「(売春を)やれなくなっても続けたい」と回答した者は約3割である。
つまり、元従業婦のうち、売春防止法の定める「更生」に前向きな人の方が、否定的な人よりも多かったという結果である。

他方、これまで、赤線従業婦の意識に関連して、しばしば参照されてきたのは『婦人新風』(1952〜1957年、新吉原女子保健組合機関誌)であり、その誌面からは少し異なる印象を受ける。
『婦人新風』の復刻版は、明石書店から1989年に刊行されたが、その解説文のタイトルは「売春防止法の制定に反対していた売春婦たちの声」であった。

この『婦人新風』に対しては、発刊当時から、そこに掲載された従業婦の「声」が業者に操作されたものではないかという疑いがかけられており、たしかにその誌面では、従業婦たちに対して、わがままを言うのは控えるように諭したりしていて、業者側の都合が優先されている印象を受ける箇所もある。
しかし、『婦人新風』が赤線業者の強い影響力のもとにあったメディアであることを踏まえつつも、そこから、従業婦たちの考えを丁寧に読み解いていく必要があるだろう。

新吉原女子保健組合の組合長だった柳沼澄子は、「更生」について、次のように述べている。

「私はもともと更生という言葉にはかなり反感もあったのですが、それは自分のこととして、身近かの知人友人の中から、この街を去っていく人を送るたびに、言いしれぬ明るさに一日中心がなごむのです。罪人ではあるまいし、更生などと言はないで欲しい。などと、一言の文句も云はず、弱い身心に背負いきれぬ負担や、落胆や自棄や反抗心をぐつとかみしめ、長いつとめ中健康を守り、きれぎれに去つてゆく人の後姿に、私は目頭があつくなるのです。そして自分自身の心情を反省するのです。
先日も、前に組合でいっしょに仕事をしていたNさんを、浅草の表通りでちらと見た。旦那さんとその母親との三人ずれ、言葉をかけるのも何か遠慮して、お互に、目顔で挨拶して別れただけだけれど(遠慮はNさんえの思いやりのつもり)その日は終日心の中で、いいないいなとつぶやき健康に頑張ってこの街からそつと去る日を皆が望んでいるのだとしみじみ思いました。」(柳沼澄子「明暗三題」『婦人新風』第18号、1954年5月)

この文中の「罪人ではあるまいし、更生などと言はないで欲しい」という箇所には、従業婦たちの願いが集約されているように思われる。
彼女たちを見下す世間の目に、どれほど傷つけられてきたかということが、この組合誌では、くりかえし訴えられている。

当時は、まだ終戦から10年ほどしか経っておらず、戦争によって父親や夫を奪われた女性たちの中には、女手一つで、子どもや老親を養わなければならなかった者もいた。 柳沼の父親も戦死しており、彼女自身は里子に出され、やがて母親も亡くなり、吉原の料理店で働き始めた頃には、7人家族の生活を支えていた。
彼女たちは、そうした厳しい条件の下で、なんとか飢えずに暮らしていくための方法を模索し続けていたのであって、それはまさに、人権の問題であった。
しかし、社会からは、あたかも罪人のように見なされているために、彼女たちは、街中で昔の仲間と再開しても、赤線従業婦だった過去を隠すために、お互いに遠慮しあって、挨拶もできないような状況だったのである。

柳沼は同時に、「健康に頑張ってこの街からそつと去る日を皆が望んでいる」とも述べている。
彼女自身も、1954年の年末に結婚して、自ら赤線から去った。
しかしそれは、売春防止法の制定を進める人たちの考えに、そのまま従ったのではない。

「私ども従業婦の立場として、訴えたいことのだい一は、厚生施設や職業資金等に全然ふれないで、一方的に、売春は悪いことだから禁止するという偉い人々の片寄つた考え方です。」(柳沼澄子「冷静に見守ろう」『婦人新風』第19号、1954年6月)

また、別の従業婦は、次のように述べている。

「わたしのような年で(二十九才)手に職もないし頼りになる身内も姉妹もないものには、いまの仕事から追われることはその日から食うにこまるのです。長いこと苦労を重ね、夫に死なれてから子供を育てることだけにかまつてカツカツに生きてきたので、食えなくなること、仕送りが出来なくなることが何よりおそろしいことです。」(揚屋、明美「えらい方にお願い」『婦人新風』第24号、1954年11月)

こうして、従業婦たちは「食えなくなること」を防ぐための具体策を求め続けていた。
つまり、「えらい人」たちが売買春を論じる際に、その善悪ばかりにこだわること自体が偏っており、当事者の真の生活上の要求には応えられていないと指摘しているのである。

1956年1月、東京都従業員組合の発足を報じた記事には、次のように記されている。

「私たちには共通の立場がある。それは「働かねばやつてゆけない」ということだ。(中略)これまで私たちはずいぶん話もしたし、訴えもした。けれども、私たちの 正直な声はほとんど正当に聞いてはもらえなかった。」(「東京都従業員組合発足す」『婦人新風』第37号、1956年1月)

『婦人新風』は、この年の5月に売春防止法が制定されると、急速に方針を転換した。
たとえば、東京都女子従業員組合連合会が、新方針として「健全なる家庭への復帰」を打ち出したことを大きく報じている(第43号、1956年6月)。また、従業婦たちに対しては「一日もはやく自力更生を」と呼びかけた(第44号、1956年7月)。

同じ時期、全国接客業女子従業員組合連盟は、新方針として、従業婦たちに「生活保障の確立を条件に(売春防止)法案に賛成しよう」と呼びかけ、その周知のため、会長の小国千代子と副会長の小林みどりを「全国行脚」させた(「接客婦の遊説隊」『アサヒグラフ』1956年6月24日)。
この記事の写真には、売春防止法に協力するよう説得する副会長を取り囲んで熱心に話に聞き入る赤線従業婦たちの姿が映し出されている。

こうした転換は、一見、赤線関係者たちが、売春防止法に対して“反対”から“賛成”へと立場を転じたようにも見えるが、従業婦たちは最初から、売春の問題を、“正しさ”ではなく、自らの生存の問題と位置づけていたのであり、その点では何も変わっていないのだとも言える。
彼女たちは、主張を曲げたのでも負けたのでもなくて、一貫して生活保障を訴え、自分たちはどうやって食べていけばいいのかと、問い続けてきたのである。

こうした当事者の叫びに、これまで、日本社会は正面から向き合ってきただろうか。
今回の法改正に向けた検討プロセスにおいては、どうだったか。

売春防止法の制定から約70年を経た現在、その法改正を検討する上で、まず着手すべきは、性産業従事者が今、どのように暮らし、どのような問題意識を持っているのかを丁寧に調査することである。
おそらく、それぞれの人が置かれた状況は多様であろうが、社会課題として優先的に考えるべきは、最も困難を抱えている人びとのことである。
今後の売春防止法をめぐる議論の中で必要なのは、当事者の中で最も困っている人びとの暮らしの問題を中心に、社会全体でそれを直接解決していくための持続可能な仕組みを、具体的に考案していくことではないだろうか。

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第1回 誰のための法改正なのか 林葉子
もぜひお読みください。