2011.02.25 Fri
さて、千田さんからの第三部までのレポートに続き、第四部は、千田さんご自身が司会を担当されたこともあり、岡野が代わってレポートします。
第四部は、15分の休憩のあと、第二部・第三部のお話を受けて、新編各巻の編を担われた方々からお答をいただきました。ここもまた、同時進行でメモした関係上、筆記者が聞き逃した部分があります。より正確な内容については、テープ起こししたものを、アップいたしますので乞うご期待!
また、このレポート後には、千田さんがレポートしてくださった、第二部の発言者の方々からの、記事が掲載されますので、こちらもお楽しみに!
上野千鶴子さんから、1巻『リブとフェミニズム』6巻『セクシュアリティ』について。
上野さんは、周到に『資料 日本ウーマン・リブ史』からの抜粋をいくつか準備されて、〈伝えたい、残したい、手渡したい〉と思うひとたちがいたからこそ、編むことのできた1巻の重要性を伝えてくれました。三部で指摘された、マイノリティ問題については、上野さんによれば、第6巻はあえて、圧倒的多数である異性愛について批判的に議論することが必要だという思いのもとで、編集された。また、レズビアン・スタディーズをフェミニズムの枠内にとどめておいたのは、政治的な意図・戦略があった。
悔いとして言及されたのは、むしろ、解放としての性、快楽としての性について収録できなかったこと。どのアンソロジーにもなにか足りないものが残り続けるが、より多くの方との連帯を編集では目指されたらしい。江原由美子さんから、2巻『フェミニズム理論』5巻『母性』について
江原さんもやはり、紙幅の関係で、多くの新しい原稿を入れることができなかったことを悔やまれています。これが足りない、と指摘する方は確かに楽かもしれないが、選択することの身を切られる思いが、にじみ出ていました。新版と旧版のあいだの15年間の変化は大きく、とりわけ、グローバル化のなかで、フェミニズムはまだ、その流れのなかで理論化ができていないかもしれない、との言葉が江原さんから語られると、ずっしりとひびく。また、この間の変化については、『母性』をめぐっても同様で、世界では再生産労働が国際分業のなかで担われているが、フェミニズムはまだまだ理論化の途上にあることは確かだ。
江原さんの最後の訴えは、ぜひ、新版の全巻を電子化してほしい、ということであった。それだけでなく、フェミニズムの関連の記事を、電子化へつなげていくことが、今のかだい。ただ、次の世代へとつなげていくときに、やはり選択は大切な作業である、と付け加えられた。
井上輝子さんから、3巻『性役割』7巻『表現とメディア』について
90年代大きく変化した分野といえるこの二つについて担当された井上さんは、二部三部での発言について編者として、『日本のフェミニズム』が次の世代にフェミニズムへの関心を喚起したことを知り、喜んでいるとシンポへの謝意を述べられた。 井上さんは、旧版以降「性役割」という用語がほとんど使用されなくなり、代わってジェンダーが使用されることで、逆に「性役割」が再生産されていくことが見えなくなってしまっているのではないか、との危惧を表明されました。また、7巻については、メディア研究やカルチュラル・スタディーズの進展によって、ずいぶんと議論が進展した点に言及され、しかし、媒体の変化は、書き手の変化にまで波及するだろうとの可能を述べられた。第三部で指摘を受けた言語の問題については、おそらく編集する者の力量に大きく左右されるだろうし、また、当事者の多様性については、連帯もしながら、それぞれに巻を編むという両方の方向で考えたほうがいいだろう、とのことでした。
天野正子さんから、8巻『ジェンダーと教育』について
天野さんのお話は、編集作業についてご自身の来歴を振り返りながらのものでした。教育という、日本の戦後民主主義が大きく試される分野のなかで、ジェンダーの再編がなされる様を批判的に読み説かれてきた天野さんにとっても、本書の編集は、自分の歴史体験を相対化しながらの編集で、それは、文献を選ぶ立場性が試される経験であったようです。第三部での発言を引かれながら、天野さんは、アンソロジーが、第1世代のフェミニズムの立場提示、ひとつのフェミニズム観を提示しているわけではない、と否定された。むしろ、編者によってフェミニズム観が共有されていないのでは、という問題はあったようだ。天野さんによれば、当事者間の自己定義を尊重する、といった共通認識はあったが、あとは編者の自由に任されていたのが実際の編集方針だったとのこと。共通性のなかにある、多様性を読み取ってほしい、というのが天野さんからのメッセージだ。かつての女性学は、運動・研究・経験の三位一体があったが、ジェンダー研究へと洗練されていくと、現実とのかい離があるかもしれないが、天野さんが編んだ言葉が、若いひとに届いたことは、確かだろうと結ばれた。伊藤るりさんから、9巻『グローバリゼーション』について
国際社会学の専門家として、遅れてやってきたフェミニストかな、という思いがあると語り始められた伊藤さん。9巻の悩みは、「日本の」という括りであったとのこと。グローバリゼーションは、国境から離脱・再編といった、複雑な動きがあるものの、この括りが、選択するさいの縛りになったかもしれない、と述べられた。
やはり自分のことに言及されながら、国境を超えるフェミニズムが日本をめぐってどう展開してきたか、という基準で選択してはみたが、なお、「日本の」の縛りから、多くの問題へのアプローチが難しくなったことを、解説での苦労に触れながら伝えられた。聞いているわたしにも、その辛さが響いてきた。
伊藤さんの編者としての苦しみは、おそらく全巻に共通するものなのだろう。ただ、伊藤さんがおっしゃられたように、旧版のなかにも、すでにグローバル化は埋め込まれている。全12巻にグローバル化の問題がかかわっていると思い読み直してみたい。
最後に、「国際協力とフェミニズム」や、当事者からみた「トランス・ナショナル」の問題を取り上げることができなかった点について、今後の課題とされた。
加納実紀代さんから、10巻『女性史・ジェンダー史』について
加納さんからは、できなかったこと、ではなく、むしろ15年後の希望が語られた。そこには、女性史の可能性を伝えたい、という加納さんの気持ちが込められていた。ジェンダー秩序の歴史構築性を明らかにするジェンダー史・女性史の厚みはまだまだ、社会には活かされていない。蓄積を生かすために、なにが必要かを考えることが、今後の課題であることは確かだ。
加納さんの力強い主張は、フェミニズム研究は歴史研究へと収斂するはずだ、という一言に込められていた。加納さんは、NHK大河ドラマ「江」の歴史考証のおかしさに言及されながら、歴史研究のもつ、現在のジェンダー観を覆す力を指摘し、現在の歴史教育じたいが、歴史貫通的にジェンダー規範・本質主義を再生産している点を批判された。
また、多くの編者が言及された当事者問題については、ジェンダー秩序のなかの抑圧、という点から編んできたと回答された。日本の、ではなくて、日本に関わる様々な領域から国境を開いていくことが、日本のジェンダー秩序を解体するためには必要だという言葉で発言を結ばれた。
11巻『フェミニズム文学批評』編者の齋藤美奈子さんからは、急きょ出席できなくなったことをお詫びされるメッセージをいただきました。新編から新たに編者に加わった齋藤さんなら、どのように二部・三部にリプライされるか、と想像すると、ご欠席は本当に残念でした。
伊藤公雄さんから、12巻『男性学』について
当事者性という意味では、自分はもっとも多くを語らなければならない巻の担当者である、と新版から担当された伊藤さん。解説のなかですでに、フェミニズムにおける男性学の位置づけについて語られているが、カテゴリ-化の問題をめぐって、男性学は、フェミニズムの内部・外部、あるいは第三の道?という議論に対して、伊藤さんの答えは、「いずれも」だった。
ときに、「フェミニズムの剽窃」とまで言われたことがある、という伊藤さんは、男性が関わることは、両義的で、しんどいけど、楽しい、とのこと。研究のスタイルもまた、両義的だとおっしゃられ、男性学にとっては、女性にする男性学のほうが、自分には分からないことがあるので、女性の男性論はもっとでてきてほしいと願っているのだそうだ。それと同じことが、フェミニストにも言えるかどうか、このあたりは、やはり多くの人が考えたい問題だろう。
ただ、やはり男性としてしか関われない伊藤さんは、はっきり「フェミニストではない」、とおっしゃられた。理論か実践か、といった問題については、現在でも多くの政策に関わってこられている伊藤さんは、今後は制度設計についての研究を進めていくべきだ、とメッセージを残された。
大沢真理さんから、4巻『権力と労働』について
なんと、この日に新潟でのお仕事があり、なんとか第四部に間に合われた大沢さん。民主党政権の諮問委員会や、男女共同社会参画基本法制定にも尽力された大沢さん。旧版と同じタイトルをもつ巻でありながら、編者が違う巻が「権力と労働」です。第4巻は、フェミニズムのど真ん中の問題ともいえます。大沢さんは、この長くフェミニストたちが葛藤してきた問題の巻を、新たに引き継いで苦悩した、と発現されました。たしかに、旧版は、かなり凝集性があり、この上に何を付け加えるのかはかなり迷われたはず。たしかに、この15年、現状はむしろ改悪とでもいえるなか、研究はずいぶん進んだわけですから、やはり第4巻も、紙幅との闘いであったようです。
大沢さんによれば、労働問題にジェンダーの観点からアプローチするさいに、外国人研究者、外国人当事者、男性研究者たちを入れられなかったのは、非常に残念だったとのこと。一言でいえば、偏見のないアンソロジーはないので、その捻じれを楽しんでほしいというのが編者からのメッセージです。
また、興味深かったのは、執筆者の平均年齢は、あがったのではないか、という大沢さんのご指摘です。ただ、論文自体は非常に若々しく、たとえば、労働法の専門家である浅倉むつ子さんが、ずっと抱えていた熱い思いを、女性中心アプローチとして打ち出したのは2000年です。堂本暁子さんも、政治の中枢で活躍したのち、ようやくDVについての論考を書かれた、といった具合に、これまでの活躍のうえで、フェミニズムの課題に取り組まれるようになりました。これは、34歳になってようやく、フェミニズムに目覚めたと発言された大沢さんも、同じような道をたどられたのかもしれません。
また、大沢さんは、現在において、家父長制の概念を手放したことは、研究を深化させるためにはよかったかな、という思いがあるとのことでした。
最後に、若いフェミニズムは生まれているのか、という点について、新たにまた、『ジェンダー社会科学の可能性』(全4巻)が出版されるので、また手に取ってください、新しいフェミニズムの論考が続々でてきています、との宣伝とともに、〈遅れてきたフェミニストといえば、わたしが最も遅れてきたフェミニストの一人。その意味では、今後様々なひとに、フェミニストとなる可能性が開かれているだろう〉とのメッセージで大沢さんの発言を締めくくられました。
最後の、「さまざまなひとに、フェミニストとなる可能性が開かれている」との発言に、フェミニストの多様性や、可能性、あらゆる人がフェミニストになる可能性があるのだという、心強いメッセージを聞いたのは、おそらくわたしだけではないと思いました。
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