2011.08.04 Thu
アマゾンのサーバでエラーが起こっているかもしれません。一度ページを再読み込みしてみてください.本書は、日常に潜むさまざまな「悪意」をさりげなく、あざやかに描き出している。いや、「悪意」というのは本書の中の言葉だけれど、なかには「悪意」ともいえない、不穏な衝動の予感とでもいうような、それを抱く人自身がその感情に不安を抱きながら生きているような感情が、そのもてあますさままるごと描かれている。
住み慣れた東京から引っ越した長野での暮らしに飽き飽きし、久々に東京へやってきたくり子。3歳の娘修子を育てる友人、宏絵の自宅に泊めてもらう。「寝る段になって私もくりちゃんと寝ると子どものようなことを言い」、「くり子の隣にわざわざ自分の布団を持ってきて敷いた」宏絵。殺したいと思った人がいるか、という、数時間前に自分で遮ったくり子の問いかけを持ち出し、「修子を殺したいと百回くらい思った」、と言う。彼女は子どもを憎んだり、疎んじているわけではない。はたから見たらごく普通か普通以上に「良くやっている」母親だろう。ただ、子どもをかわいいと思うほどに不安になる。
いつか子どもは「私のことなんか捨てて、どっかいっちゃうのに」と思って。「修子がかわいくてかわいくて、ずっといっしょにいたくて、離れたくなくて、仕事とかなんかもうどうでもいいの。自分のことなんか、ネズミの糞くらいどうでもよくなっちゃったの。」「あの子をかわいいと思うと、自分に対していらいらしてきてしょうがなくなる。…殺したいっていうのとはたぶん全然違うんだけど、この子がいなくなってくれればって、本当に百回くらい考えた。
いなくなったら、すごく取り乱すだろうし、かなしむけど、でもどこかでほっとするんじゃないかなって」。このくだりを読んだとき、私は衝撃を受けた。こういう、微妙で、言葉にすると伝わらない気がして口にできないような不穏な不安を、こんなに鮮やかに描くとは。だからといって本書がこれらの不安に、何らかの解決を与えてくれるわけではない。でも、そこにそれがある、と、その感情に言葉を与えてくれる。自分の、または他人の抱く得体のしれない不安に。それだけで、言いようのない不穏さから少し救われるような気がする。言葉を与えられて初めて、その不穏さからの解放が可能になるから。(anna)
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