
一兵士がみた原爆、刻んだクロニクル
それまで読み漁ってきた被爆体験記の類いとは一線を画する、ユニークな文体と内容に私は圧倒された。(川本隆史「あとがき」より)
本書は、1980年に旺史社より刊行された『原爆と一兵士』という本を、版面は原著のものをそのままに、新たに本文に注と2つの解説を付して、著者が本来望んだタイトルに戻して再刊した本になります。
著者の秦恒雄について、知る方は多くないと思います。化学繊維メーカーである帝人創業者の一人、秦逸三の長男であり、京都帝大にて西洋哲学を学び、戦後は日本機械工業連合会にて勤務をされました。そのご経歴の中で一つエピソードをあげるとすると、戦前の滝川事件にて学生委員として当時の文部大臣で滝川幸辰教授の処分を行った鳩山一郎と面会を試みた、そうしたお方であります。
本書は、広島市中心部より約25kmを離れた大竹海兵団の基地から遠望した原爆キノコ雲の報告にはじまり、翌日広島市内にはいり、変わり果てた妻を目の当たりにし、9月に東京に向かうまでの出来事を時系列に記しています。
理系的というのでしょうか、ある種突き放したような原爆の記録は、当時のことを知らない読者に、冷徹なまでの追体験を迫ります。そして筆者が愛した中国古典の素養と、旧制広島高校在学中より親しまれた西洋の社会思想の教養とに裏打ちされた、戦前リベラリズムの矜持のようなものがかしこに見え隠れします。
本書は、ある研究会とその打ち上げにてご一緒させていただきました、川本隆史さんからご紹介をいただき、筆者の息子で解説も寄せていただきました秦剛平さんのお二人のご協力で刊行に至りました。
版元の個人的なことになりますが、戦中を兵士として生き、ヒロシマでの言語を絶するご経験によるのでしょうか、秦剛平さんから伝え聞く秦恒雄さんのその死生観やものの見方が、戦中のビルマを生きて帰った私の祖父と重なるように感じたことが、出版のとっかかりでもありました。
戦中世代の声がほぼ消失してしまったいま、戦後80年、昭和100年の節目に、このような本を世に届けることは大事ではないかと、平成生まれで昭和を知らない版元でございますが、微力ながら思う次第です。
そして奇縁というべきでしょうか、秦剛平さんと奥様の和子さまは、上皇陛下の英語家庭教師であったヴァイニング夫人とご縁があり、その訳書(『天皇とわたし』1989年、山本書店)も手掛けられていることから、本書は宮内庁に献本されることになりました。(私の版元人生でも、もちろん初めてです。)
2025年夏の参議院選挙を通して、現行憲法の19~22条(「思想・良心の自由」「信教の自由」「表現の自由」「居住、移転、職業選択、国籍離脱の自由」)についてその「創憲」案では明記されていない政党の支持が伸びている状況下、言論や思想の自由が尊重される社会のありがたさをあらためて感じます。そうした自由を守り続けることの意義や、基本的人権として培われてきた歴史的経緯について考え続けることの重要性を訴えながら、本書の紹介を終えさせていただきます。
◆書誌データ
書名 :ひろひと天皇年代記―一九四五年八月ヒロシマ
著者 :秦恒雄 秦剛平・川本隆史/解説
頁数 :274頁
刊行日:2025/07/01
出版社:琥珀書房
定価 :3080円(税込)
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