女たちの声、「わたし/たち」の言葉

「戦後日本」のフェミニズムの画期は、ウーマン・リブ(第二波フェミニズム)にあると見なされている。わたしも、そこで生み出された運動や思想の多大な恩恵と大きな影響を受けながら書き始めた女の一人である。とはいえ、それ以前に「女の思想」がなかったわけではない。上野千鶴子は森崎和江をウーマン・リブ以前の枢要な「〈おんな〉の思想」として参照してきたと述べている(『性愛論』『〈おんな〉の思想』)。

本書の主人公は、石牟礼道子、中村きい子・森崎和江という三人の女たちだ。三人は、いずれも執筆キャリアの最初期に『サークル村』に参加し、戦後サークル文化運動を経験していた。この三人が1950年代から60年代にかけて行った「女性表現」は、「戦後日本」におけるリブ以前のフェミニズム思想/文学として捉えることができる。

彼女たちが参画した戦後サークル文化運動は、1950年代に労働/社会運動と隣接しつつ展開された集団的な文化運動であり、その退潮期に、その起爆剤として、あるいは後退をも積極的契機に転化すべく1958年に立ち上げられたのが、九州・山口のサークル交流誌『サークル村』だった。『サークル村』は、皇国主義的ファシズムや排他的で同調圧力の強い同化型共同体や企業組織、国家組織などとは異なる個と集団を目指した文化運動だった。彼女たちは『サークル村』に参画しながら、その集団にすら伴われる家父長制と性差別を批判し、別様の個と集団の思想と表現を創造/想像していった。

個の「分離」や「自立」を基調とするフェミニズムに対し、石牟礼・森崎・中村らは、相互に交流・接触し互いに他をケアしあう個と集団の思想を模索した。筑豊で坑内労働に従事していた女坑夫たちに聞書きしていた頃、森崎は、こう述べている。「他者と溶けあうことでしかそのものとの主体的関係は掴めないことを主張する。共有することで完結する自我。分離・対立、個我へむこうことで結晶している文明の限界を、自分の肉体のうえに知ったのだ」(「坑夫の妻たち」)。

彼女たちの共同性・協働性は、物書きたちのコラボにとどまるのでは無論なく、名もなきひとびと、声なき人びととのぶつかり合いという「出来事」が生み出す、不透明な他者とともに生きる構えとしての「わたし/たち」である。彼女たちの言葉は、そんな「わたし/たち」の声を潜勢させている。

熊本生まれ、大阪経由、鹿児島育ちのわたしにとって、この小さな本の主人公である三人は、同じ九州に縁をもつ女(おなご・おごじょ)の先達、心から敬愛する女性表現者である。書物の言葉として出会う以前に、この三人の世界は物心つく前からわたしのすぐそばにあり、傍らで息づいていた。その意味で、この本は実に自伝的な書物でもある。そして、もしできることなら、わたしもまた、彼女たちが紡いだような「わたし/たち」の言葉を書く人でありたい。そんな願いを携えながら本書を記した。




[著者略歴]

渡邊英理(わたなべ えり)
熊本県生まれ、鹿児島県育ち。大阪大学大学院人文学研究科教授。日本語文学、批評/批評理論、思想文学論。東京大学大学院総合文化研究科単位取得後満期退学。博士(学術、東京大学、2012年)。

主要著書に、本書のほか、単著『中上健次論』(インスクリプト、2022年、第14回表象文化論学会賞)、共編著『クリティカルワード 文学理論』(三原芳秋・鵜戸聡との編著、フィルムアート社、2020年)、共著『〈戦後文学〉の現在形』(紅野謙介・内藤千珠子・成田龍一編、平凡社、2020年)、共著『文学理論の名著』(大橋洋一・三原芳秋編著、平凡社、2025年)、共著『二十一世紀の荒地へ』(酒井直樹・坪井秀人との鼎談収録、以文社、2025年)など。文芸批評では、共同通信配信・文芸時評「いま、文学の場所へ」、「女たちの群像」『群像』(講談社)、「おごじょの本棚」『西日本新聞』などを連載中。



[出版社の紹介頁]
https://www.kankanbou.com/books/jinbun/0678



◆書誌データ
書 名:『到来する女たち──石牟礼道子・中村きい子・森﨑和江の思想文学』
著 者:渡邊英理
頁 数:400頁
刊行日:2025年6月30日
出版社:書肆侃侃房
定 価:2640円(税込)



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