男性史入門に最適の書

概要
本書は、本著者による前著『はじめての西洋ジェンダー史』(2021年)に続き、とりわけ「男性史研究の意義をわかりやすく若い世代に伝えたい」(224頁)との思いから執筆された男性史の入門書(ちくまプリマ―新書)である。1970年代のメンズ・リブ運動から、1990年代以降に男性史が学問としての地歩を固めていく過程を紹介しつつ、近代以降のスポーツや大学、決闘文化、軍隊などを主な事例として、身体やセクシュアリティをめぐる「男らしさ」の規範がどのように変遷し、社会において覇権的なジェンダー規範として位置づけられていったのかが、ドイツを中心とする西洋史に加え、明治時代以降の日本にも言及しながら描かれている。

前著からの連続 ― ジェンダー規範と身分制社会/市民社会との交錯
本著者は『はじめての西洋ジェンダー史』においては、身分制社会から市民社会へと移行する西洋社会において、ジェンダー規範に基づく二項対立的な女らしさ/男らしさや異性愛規範が、社会形成にいかなる影響を及ぼしてきたかを論じた。ジェンダー規範が権力による支配を維持・強化するために利用されてきたという点は、身分制社会/市民社会いずれにおいても変わらない。しかし、身分制社会での価値の基軸はあくまでも「身分」であり、身分制秩序と、近代以降の市民=男性間における表層的平等を前提とする社会とでは、ジェンダー規範の内容も作用の仕方も異なっていたことを著者は示している。すなわち、身分制社会におけるジェンダー規範は、市民社会成立後のそれと比べれば、性の二項対立はより流動的であり、セクシュアリティにも曖昧な領域が許容されていた。絶対的な身分差の前には、男女の違いやジェンダー規範における「異常」と「正常」の違いは、ある程度、相対的なものでありえたのである。

近代社会と男らしさの制度化
本書で対象となる男性史は、18世紀以降の市民社会成立後、特に19世紀から20世紀にかけての「男らしさ」の規範に焦点を当てている。身分制から解放された男性市民の社会は、それまで身分のもとに相対化されていたジェンダー秩序を、男性を中心とするむき出しの社会秩序として再構築する試みであったといえよう。科学の領域では、性差の帰属性それ自体が、「医者も協同し、『科学的根拠』をもってそれを『自然の定め』、『自然の摂理』」(39頁)としてみなされるようになった。近代スポーツは、「文明化され(非野蛮化され)、戦うことのできる身体、労働する身体を備える」、「男らしさを表現する場」(51頁)として確立した。大学は「男性組織」として、「普遍的な」学問を講じ、男性学生(および教員)たちは社交クラブや決闘を通じてホモソーシャルな連帯を強め、大学を女性嫌悪の温床とした。さらに、市民とはすなわち潜在的な兵士でもあった。近代徴兵制は徴兵検査という鋳型を通じ、男たちを「男らしさの学校」としての国軍に、「社会階級」を超えて(強制的に)押し込んだ。そこでは、「お国のために役立つ男」として、「国が求める『男らしさのいろは』」(98頁)を叩き込まれ、女性性は男性たちの結束のために性的消費の対象へと貶められていった。

排除された男性たち
本書ではさらに、覇権的な男らしさが、男性内部における差異化と序列化を再演し続けていた様相が示されている。すなわち、男性同性愛者などのクィア当事者、信仰等に基づき覇権的な男らしさの規範の執行を拒んだ男性たち、そしてユダヤ人など差別の対象となった人種の男性など、彼らは全て男らしさの「落伍者」としてのラベリングを(時には自ら進んで)受け、排除の対象となった。結局、記録に残された人間の歴史の多くは、排除によって「純化」を遂げた覇権的な男らしさの勝者による語りである。本書は、そこから追放された人々の声を掘り起こす貴重な営みでもある。

過去を語りなおすこと
記録の多くがジェンダー/セクシュアリティ規範の勝者による語りであるとき、その規範から零れ落ちる人々にとって、過去を振り返ることは極めて困難である。なぜなら、自らの系譜として回想できる過去が、記録の中に存在しないからである。そのことは当事者に過去への諦念をもたらし、異性愛規範や覇権的ジェンダー規範の外にある生き方/アイデンティティが、過去にも現在にも見出せないという構造的な孤立を、将来にわたって再生産させ続ける。

記録の破片を拾い集めることは、覇権的ジェンダー規範から排除された人々の歴史を語りなおすことであり、そのアイデンティティを回復する営みでもある。そうした意義においても、本書のような入門書を手に取り、身近に置いておくことは、現代における「合理的な標準」がいかなる不条理の淵源の上に築かれてきたのかを知り、その正当性を問い直しながら生きていくための一助ともなるだろう。

※ なお、書評子は本書の原稿段階から目を通させていただき、若干の意見を述べる機会を得ていたことを付記しておく。

※ 本書の「はじめに」の部分はwebちくまに掲載されており、ここでは図版もカラーで見ることができるので、ぜひ参照されたい。

https://www.webchikuma.com/n/n94845d984ca1

◆書誌データ
 書 名:入門 男らしさの歴史
 著 者:弓削尚子
 頁 数:240頁
 刊行日:2025年9月9日
 出版社:筑摩書房
 定 価:1,034円 (税込み)

入門 男らしさの歴史 (ちくまプリマー新書 501)

著者:弓削 尚子

筑摩書房( 2025/09/11 )