
今月の陽の当らなかった女性作曲家たち第5シリーズ第5回は、ユリー・フォン・ヴェべナウ(Julie von Webenau)をお送りします。1813年、現在のウクライナのリヴィウ、当時はオーストリア・ハンガリー二重帝国下のレンベルクと呼ばれていた街で生まれ、1887年にオーストリア領グラーツで亡くなりました。
政府高官の父親と声楽を趣味にしていた母親の下、3兄弟の一人として育ちました。ピアノは作曲家アマデウス・モーツァルト(Amadeus Mozart) の末の息子、フランツ・クサーバー・モーツアルト(Franz Xaver Wolfgang Mozart.1791-1844)について勉強しました。

1865年のレンベルク

クサーバー・モーツァルト
クサーバー・モーツアルトは演奏家としての活動の傍ら、レンベルクには25年間住み、ヴェベナウをはじめ多くの上流階級の子女を教えました。加えて生涯独身だった彼は、ヴェべナウの母親が愛人で法廷相続人だったという記述がありますが、あいにく詳細は出てきませんでした。
アマデウス・モーツアルトには妻コンスタンツェとの間に6人の子供がいました。そのうち2人しか生き延びることができず、クサーバーは末っ子で、生まれて間もなく父親は亡くなりましたが、フンメルやサリエリに師事し、ウィーン古典派の系統の、極めて父親の影響が濃く見て取れる作品を残しました。兄にも子供がいなかったため、モーツアルトの家系はここで途絶えました。
ヴェべナウは1838年3月に25歳でレンベルク(現在のウクライナ・リヴィウ)で結婚しました。お相手は17歳年上の弁護士で、ウィーンの議会設立のための裁判所のメンバーとなった
ため、同年にウィーンへ引越しました。ふたりには息子が1人生まれ、後年この息子はコンスタンチノープルで参事官を務めました。夫は41年に亡くなっており、結婚生活はほんの3
年間だったことがうかがえます。
夫の亡き1年後の1842年には、ブラジルの外交使節団の1人だった男性と再婚します。2人の息子と1人の娘に恵まれました。夫が亡くなった1877年以降は、亡くなるまで実の妹の
下で暮らしました。尚、孫娘も後年、作曲家になりました。

作品の表紙
1839年、ロベルト・シューマンが作品20ユーモレスクを彼女に献呈しています。
作品18のアラベスクも献呈する予定でしたが、この作品は別の人に行きました。これに対し彼女は、翌年1840年にシューマンに作品25の2曲を献呈しています。
シューマンは1835年に、すでにライプツィヒでヴェべナウに会っていましたが、39年にウィーンで再会しました。この時期はクララとの恋愛関係、そして結婚へ向けて動きながら、しかしクララの父ヴィークの病的な反対があり訴訟にも発展していました。
ヴェべナウの作品は当時の女性作曲家には稀だった作品番号が付いており、作品1から作品30までの主だった作品はピアノ作品で、ソナタ、変奏曲、ノクターン、舟歌、カプリッチオ等を書いています。歌曲はドイツの詩人のハイネ、ゲーテ、ライネックの詩に曲を付けました。15作品がIMSLP楽譜サイトでダウンロード可能です。作曲活動は作曲年代を見る限り10代前半から20代までだったようです。

出典参照
Julie von Webner, Wiki in German Julie Weber von Webenau
Wikipedia, the free encyclopedia Wiki in English Julie von Webenau - Wikipedia
Xaver Mozart Wiki,Franz Xaver Wolfgang Mozart - Wikipedia
IMSLP作品サイト、 最初に本日の作品が出てきます。
ユリー・フォン・ヴェーベナウ - IMSLP/ペトルッチ楽譜ライブラリー: パブリックドメインの無料楽譜
作品演奏は、ロベルト・シューマンに献呈された1840年作曲の、作品25 L'Adieu et le Retour (The Farewell and the Return )から第1番L'Adieu(別れ)をお聞き頂きます。
作品は昨年の『国際女性の日』に、ニューヨークのクラシックラジオ局WQXRが終日女性作曲家特集を放送する中、美しいメロディが耳に留まり、この度のエッセイと演奏に繋がりました。WQXR 局のリンクはこちら:https://x.gd/n0wvC
あいにく彼女に関する資料はとても少なかったです。ロマン派時代の情緒豊かなメロディは、ウェーバーの作品に似た音楽性を感じさせ、クサーバー・モーツアルトの影響は特に感じられませんでした。










