タイトル:金子文子―何が私をこうさせたか
主演女優:菜 葉 菜(金子文子)
助演女優:洞口依子(片山和里子-仏道婦人之会・教誨師)
白川和子(池田マサ―地元寺の僧侶婦人・教誨師)
鳥居しのぶ(沼部よき江―女監取締)
吉行和子(佐伯ムツ―朝鮮の祖母)
主演男優:小林且弥(朴烈―金子文子のパートナー)
助演男優:結城貴史(前田吉文―栃木刑務支所長)
贈人(財津富蔵―特高課長)
森了蔵(画家・無政府主義者)
音楽監督:吉岡しげ美
脚本:山﨑邦紀
監督:浜野佐知
制作・配給:旦々舎

©旦々舎
冒頭13歳の金子文子が川辺に立ち、じっと川面を見つめた後、やおら風呂敷きを取り出し、石ころを詰め、着物の両袖にも入れる。足を川中に数歩踏み出して後、彼女は、突然「復讐してやる!」とつぶやき、自死を止めるのである。まだ年端いかぬ少女の試行は、物語の進むにつれて彼女がいかに悲惨な困窮のなかに暮らしてきたかが成長した文子自身によって説明されていくが、この時の回心には十分な説明がない。絶望は憎悪に簡単に取り換えられるのか。もともと資料自体が当局によって隠蔽され、かろうじて残された短歌もわずかな人の手によって守られてきたことを思えば、これは要求が高すぎるというものであろう。上映前に少々の時間を頂いて話をうかがった浜野監督も「資料がなくて、読み込んだ予審調書は、文子の思想ばかりで人間性の手掛かりがなくて」ということだった。
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急がないでおく。監督談は後にしよう。
映画は皇太子を殺害するという意図を理由にパートナーである朴烈と一緒に逮捕され(大逆罪)、死刑宣告を受け、のち恩赦で無期懲役になってから獄死するまでの獄中121日間の生活に集約される。文子は無視され、ののしられ、身体的虐待を受け、男のおもちゃにされ、結果自分を痛めつけた権力とその権力に従事する役人を憎悪し、「いまあるものを全部壊すのが私の仕事だ」と豪語。
そして大審院で死刑判決を受けたとき法廷で「バンザイ!」を叫び、喜ぶ。やったあ、という表情。ただ実態の無い容疑のために恩赦による無期懲役で女子刑務所に送られる。
なんとか転向させようとする所長(あきらかに自らの業績にしたい?)などと思想闘争をし、改心のために誰が送られようが、懲役房に入れられようが、拷問にさらされようが、彼女の意思は変わらない。闘争といっても彼女にはアンチ天皇制/権力、人間みな平等という思想があるが、闘争相手にはただ天皇制に留まりそれを支持する考えしかない。だからいちいち文子の書いたものに激怒するだけである。文子は、ただただスッキリ一直線である。決してぶれない。見事だ。
ところでもう古典だが、柄谷行人に『意味という病』(1975)という著作がある。私の勝手な解釈に寄れば、人は「意味」がなくては生きていけなく(生きていてはいけないように思う?)、絶えず生きる意味を探していると彼は言う。病といえるまでも。「なぜ/理由?」は何かの創始者への質問には欠かせない。刑量を決めるには、犯罪の動機が要る。犯罪と動機が絶えずイコールであるだろうか。空腹でパンを盗んだような例ばかりではない。
いま私は生きることと意味を分けたが、考えてみれば、文子にとって、思想と生きる意味は一体である。イコールである。もちろんどうして自分はここに生きているのか煩悶しなかったはずはないだろうが、天皇制打破が生きることそのものになってからは、病などではない。復讐心を基盤にした彼女の生きる理由そのものに取って換ったのである。だから、天皇制によって死刑になるのは、文子を抹殺するほど天皇制は彼女の存在に恐怖するのであって、死刑は文子にとって勝利なのである。

©旦々舎
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みなさん、考え込んでしまわないだろうか。私たちは自分の思想・使命に命をかけて戦えるだろうか。思想に命を差し出せるだろうか。キリスト教が禁止下、キリシタンは拷問や死刑を超え、信仰に殉じた。死後教祖の元で安らげることが信じられたからである。命とは何なのか、あなたはいまなぜ生きているのかと、文子は強烈に問いかけてくる。私にもあなたにも。厳しい問い。
めずらしく映画終演直後期せずして拍手がわいたことを伝えておきたい。
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上映後、監督とシナリオライターとの短い対談があったが、これはWANのために、私たちの行く平日の日中に取り換えてくださったとのことである。対談の中で、この映画を作ったのは、韓国映画「金子文子と朴烈」を見て、あくまで朴のパートナーとしての文子、彼を愛し共に死ぬのを喜びとする文子像に驚愕し、「こんな文子じゃねえ(言葉ママ)」反抗心で制作した、と監督。朴から文子を解放した監督は、「男といてもしようがない」と壇上でいい放ち(これに拍手した男性が数人)、また物語にあった女性獄史の何人かが、「本当はいい子なのよね」とか、特高が獄舎に入り込むと「ここ入れるのは所長だけだ」と抵抗をする場面を作ったのは、シスターフッドだと明確に話されたのに十分納得感があった。
こんな風なちょこちょこ話では浜野さんに失礼である。ポルノ映画系出身で「自分からsexやりたいという女を作ったら、そんなこといわれたら男はタタないと男監督はいうのよ(言葉ママ)」のフェミニスト監督に十分時間を頂いてインタビューをしたいと思っている。楽しい話が聞けそう。英語で我が国にもこんな監督がいることを知らせたい。
その前に、今年は文子没後100年である。とりあえず今は金子文子と金子文子は私だ、とおっしゃる浜野佐知さんに出会ってください。評者は切望します。(河野貴代美)
掲載している写真のコピーライトはすべて旦々舎にあります。











