
6月30日に、わたしの大学時代からの恩師市川孝先生が亡くなりました。わたしがささやかながらことばの研究者として立てるようになった大恩人です。わたしが学部を卒業し、社会に出てもういちど大学院で勉強し直したいと思ったころは、女性の研究者を育てるような気配はまだあまりなかったときでした。市川先生は、当時の国語学の大御所、金田一春彦教授・柴田武教授・大野晋教授ほどは目立たない存在でしたが、現代日本語を専門として、文体論や国語表現法などで新しい分野を開いた先生でした。
わたしは卒業後、日本語教育に携わり、子育てをしながら片道2時間かけて東海大学の留学生センターに通っていました。1973年だったと思います、モスクワ大学と東海大学の間で交換協定が結ばれ、モスクワ大学の日本語科の4年生と5年生が1年間のプログラムで来日し、そのクラスを担当することになりました。それまで教えていた日本語がほとんどゼロの留学生と違って、モスクワ大学の学生たちはすでにとても流暢な日本語が話せ、より高度な表現などを求めてきました。学部で国語学概論などを習ってきただけの日本語の知識ではとても不十分だとわかってきました。それで、学部時代、国語学の担当だった市川先生に相談してみました。先生は、研究生として先生の研究室に入る道を開いてくださいました。1年間研究生として先生のゼミ生などと一緒に研究生活を経験しましたが、研究生の身分では物足りなくなって大学院を受験しようと考えました。
にわか勉強をして、受験しましたが、筆記試験では、卒業以来14年のブランクは大きくて、専門知識もほとんどなく、学部からすぐ受験する若い学生たちに交じっての受験は全く歯が立ちません。面接試験も女子大なのに男性教授ばかり3人の前で、市川先生の質問には何とか答えられましたが、古参の文学専門の教授の問いには答えらません。いちばんひどかったのは近世文学の教授でした。「君ねー、大学院は講義を聞いて研究だけしているところじゃないんだよ、学会や研究会にも出て発表しないといけない、子どもさんいるんだろう、何人いるの?」と意地の悪い質問をしてきます。とっさに「2人です」と答えました、実は3人いたのですが、3人と言ったら絶対落とされると思ったのです。子どもにはたいへん申し訳ないことをしたと思います。ひとりいないことにしてしまいました。それほど子どものいる女性に対する冷たい質問でした。それで、もう絶対落ちていると思って発表も見に行かなかったのですが、きっと市川先生が救ってくださったのでしょう。ありがたいことに合格通知が来ました。
その市川先生の指導のもと、当時問題になり始めていた「みれる、でれる」のいわゆる「ら抜き」ことばの状況を調査して、どうにか修論は終えることができました。当時はまだ日本語のジェンダーには目が向いていませんでした。
大学院を修了した春、修論を終えた学生たちの修論発表会が行われました。拙い発表をしたのですが、それを聞いていた高校教師をしている先輩が質問をしてきました。「わたしも、現代語の研究を続けたいのですが、どういう研究会があるでしょうか」と。万葉集や源氏物語の研究会は山ほどありましたが、現代日本語の研究会はまだそのころなかったのです。先の意地悪の先生からも常々「現代の日本語なんかだれでも日本人ならしゃべれるのだから、学問の対象にならない」と言われていたほど、現代日本語の研究価値はまだ認められていませんでした。質問に答えられず市川先生に助けを求めると、「そういうのはまだないと思うけど、君たちが作ればいいんだよ」と、こともなげに言われました。既成の研究会に入らせていただくのではなく、自分たちで作ればいいのだということです。今から思えば当たり前のことですが、当時のわたしたちには目からうろこでした。
そうか、自分たちで作ればいいんだ、では、作ろう。こちらも単純です。すぐ、その質問をした先輩と、大学院で現代語を研究した先輩や後輩たちに声をかけて研究会を作ることにしました。ところが、研究会をする場所がありません。研究室をもっている大学の女性専任教員は当時は非常に少なくて、たいていの女性大学院修了者は高校教師になっていました。研究会を作ったものの、どこに集まって会を開けばいいのでしょう。
仕方がありません。区民センターや公民館という公立の会場を借りことにしました。そのためには予約が必要です。3か月ぐらい前に予約が埋まってしまうところもあります。抽選のところもあります。まず、会場取り係の当番を決めて、順番に会場を探すことにしました。公の場所は会場費が安いので借りたい希望者も多くて、受付開始の日を待ってすぐ申し込まないとなかなか取れません。
実は最初は研究会の名前も決まっていませんでした。あるとき、当番になった人が申込書に会の名称を書けと言われて、とっさに思いついたのが「現代日本語研究会」でした。「何か書かないと借りられないから、適当に書いてきたけど後で変えればいいよね」と、当番さんの報告でした。
現代日本語の研究会なのか、現代の日本語研究会なのかはっきりしないという声もありましたが、どちらにとっても悪くないからこれでいこう、となりました。10人にも満たない小さな研究会の名前としてはちょっと名前が立派すぎて恥ずかしい気もしましたが、まあいいでしょう。月に一度、土曜日に集まって、それぞれの関心のテーマで研究し、順番に発表者を決めて、それをめぐって討論し意見を交換していましたが、2年たったころ、自分たちだけでごそごそやっていてもたこつぼの中みたいで進歩しないから、雑誌を出して発表の場を作ろうではないかという声が出てきました。そう、では研究会の機関誌を作ろう、ことばの研究誌だからと誌名は『ことば』、そして、創刊の辞も市川先生にお願いしよう、と。こうして1980年『ことば』1号が生まれました。先生は以下のように書いてくださいました。
現代日本語研究会のメンバーの手になる『ことば』が創刊されることになった。…女性の手になる国語研究の同人雑誌というのは珍しい。研究意欲・発表意欲のほとばしりでたものとして、まことに喜ばしいことである。
国語研究において文献的言語を対象とするオーソドックスな研究ももちろん重要であるが、それと同時に、身の回りの言語事実を凝視して、そこに見いだされる課題を追及するという行き方も捨てがたい。…その場合、既成の文体論や表現論などにあまりとらわれずに、自由に発想し、大胆に構想すればよい。現代日本語研究会の方々に斬新で意欲的な研究の続行を期待したい。…
『ことば』が、ことばに関心を持つ多くの人人にあたたかく迎えられ、励まされて、次第に大きな存在に育っていくことを切望する。
従来、女性のことばは優しくて敬語が多い、「わ」「かしら」などの終助詞をよく使うなどと、男性研究者執筆の国語学の本には書かれているのですが、自分たちのことばはほんとにそうなのかという違和感がいつもありました。まず身近な問題の解決のために、実際の話しことばを録音して分析してみようということになりました。また、国語辞書を見ると「女」の項目に「消極的で煮え切らない特性を持つ」などと書かれているが、それでいいのか、おかしいのは1冊だけなのか、それを知るには何冊もの辞書を丸ごと調べてみないとわからないのではないか、ということになりました。こういう研究は一人ではなかなかできません。でも、研究会のメンバーが共同で研究すれば、まとまったことがわかるかもしれません。そこで、共同研究をはじめました。実際のデータを取り、細かく分析してその結果を『ことば』に発表しました。
この雑誌を当時京都で中西豊子さんが始められたウイメンズブックストアで販売していただこうと、京都に送りました。京都の本屋さんで『ことば』を見た毎日新聞大阪本社の畑律江さんが、大きく夕刊で取り上げてくれました。その記事を読んだ編集者の保原万美さんが、本にしたらどうかと勧めてくれました。女性のネットワークがうまく連携して、『国語辞典にみる女性差別』(三一書房)を世に出すことができました。話しことば調査の結果は『女性のことば職場編』(ひつじ書房)として刊行することもできました。生の談話資料を公開するという初めての試みは、本物の言語資料を求めている院生や研究者から大いに歓迎されました。既成の方法にとらわれずやっていいと言ってくださった市川先生のことば研究を実践した結果の現れでした。
この雑誌があったおかげで「女性とことば」に関する論文を書くことができました。夫を呼ぶのに「主人」はおかしいと考えて歴史を調べているうちに、ジェンダーを考えざるを得なくなりました。
市川先生は、ばりばりの男性中心研究組織である、東大の国語学出身です。決してフェミニストではありませでした。が、社会に出た女性が再び学問研究することを勧め励ましてくれた数少ない男性の一人でした。わたしたち現代日本語研究会のメンバーは、市川先生の励ましを受けて研究者として成長することができました。先生には感謝してもしきれません。
わたしたちが研究をまとめた本を出しても、その本を読んで何かを言ってくださる方がいなくなったのは本当に寂しいです。









