WANac第3期 第1回が開催されました。
今回のレポートは八千代さんとさきさんです。
◆八千代さん
9月14日のオリエンを経て、9月28日19:30、いよいよアドバンスコースが始まりました。既にオリエンでそのスピード感、社会学の用語や分析方法に驚き、さらに長丁場となることを経験し、ある程度覚悟を決めて迎えた当日。せめて私にできることは万全の体調管理だけということで、前日には早寝を心がけ、当日は一日あまり疲れないように心がけて、19:30に備えました。
第1回は15名の研究計画の発表です。発表4分、コメント6分。前半は入門塾からの既知のメンバーが7名中5名、後半は既に博士論文まで提出済という方も含めて8名が予定されており、他に司会者、タイムキーバー各1名という構成で進行していきます。
はじめに、第1回目ということで、飛び入り(?)で上野さんからの説明が入りました。説明の要点は、質問に対するディフェンドのしかたも覚えてほしいこと、それから「コメントとはどういうものか」という2点です。コメントとは、執筆者の研究の欠陥をなくし、完成度を高めるようなものであるべきこと、また、コメントには内在的コメントと外在的コメントの2種があり、内在的コメントとは執筆者の不足を補完し、指摘が入る可能性が想定される欠陥部分をあらかじめ示唆して埋めてあげること、外在的コメントとはコメント者の主観的な関心に寄せたものであり、執筆者の研究の範囲外になるようなものということでした。必要なのはその研究の完成度を高めるコメントであり、単なる感想は不要であること、コメントは後からアーカイブを見ながら書くのではなく、アドバンスコースの時間中に書き終わるくらいでないと、と付け加えられました。
そして、いよいよ研究計画書の発表が始まりました。なんとトップバッターは私です。1回目の練習では8分もかかってしまった発表でしたが、2回目の練習で口頭で拾う部分に赤線を引いて短縮した結果、なんとか4分に収まりそうです。それを必死に読み上げたのですが、共有していた画面をスクロールするのを忘れていたことにはっと気づいたのは、4分の発表が終了してからでした。早速いただいた、「インタビュー対象者へのアクセスは可能なのか」というKさんからのご質問に、そういうことを聞かれるのかと思いつつ、何とか答えます。その後、上野さんから一連のコメントをいただいたのですが、メモを取り、理解に努めるのに精一杯・・・。「で、何か答えないの?言われっぱなしじゃなくて」と聞かれた私は狼狽もいいところで、何と答えたか、記憶がありません。そんな人(私)のために、スタッフの方から後日録画が送られてくるのは、本当に助かります!
自分の発表が終わった後は、先輩達の上野さんとの流れるようなやり取りを「ああ、ここでちゃんと質疑応答ができるようになるのが、実際の論文へのはじめの一歩なのだろうな」と、うっとりと聞いていました。(今、タイプミスで、質疑応答のつもりが「質疑嘔吐」と出てきたのですが、発表はまさに嘔吐するくらい緊張します。まったく関係のないことを書いて、すみません。)
休憩をはさみ、さくさく進んだものの、終了予定時間の21:30にはまだ2名の発表が残っており、その方たちは次回となりました。これで、怒涛の2時間は終わり、皆、笑顔で次回までお別れしました。最後、おまけの延長戦があったのですが、それは聞いているだけでしたので、楽しかったです。
さて、肝心の全員から全員へのコメントですが、なんと終了直後からちゃんとまとめられたものが、メールでどんどん送られてきます。上野さんも「コメントはする方も貰う方も勉強になる、貰ったコメントは財産」とおっしゃっていましたが、皆さんの私へのコメントを読み、まさに!と実感することとなりました。メールが届くたびに、何とコメントされるのかとちょっと怖い気もしますが、そこには温かく冷静な私への支援を感じるコメントばかりで、まだ見も知らぬに近いこの私のために、お一人お一人がその時間、真摯に向き合い、言葉をくれることのなんとありがたいことなのかと感動しました。なんだか、第1回から仲間意識を感じ、胸が熱くなりました。
この第1回目の皆さんからのコメントを読み、私自身の気づきが2つありました。1つ目、当たり前かもしれませんが、「研究計画書とは、私の考えが明瞭に相手に伝わるものでなければならないこと」。2つ目、「研究計画の発表は、私が困っている箇所を相手に伝えるものでなければならないこと」です。
皆さんからのコメントを読んで、私の研究計画書は曖昧な部分があり、一部、皆さんに誤解を生むようなものだったとわかりました。たとえ内容が未熟であっても、意図を伝えられていないのでは研究計画書の意味がないのですね。上野さんがしばしば「文章が伝わらないのは書き手が悪い」とおっしゃっていますが、まさにそれ。余計な言葉を省き、シンプルに、正確に、今ある構想を伝えなくては、と思いました。
さらに、その未熟な研究計画書だからこそ、2つ目の「困っていること」を明らかにし、皆さんから助言をいただけるようなものにしなくては、ということです。例えば、今私は、「外部である日本人の私がこの研究をする意味は?」という点でつまずいています。もしこれを発表の中でそれを明言できていたら、もっと皆さんから具体的なコメントが貰えたのではと思うのです。ただ現時点では、この点だけでなく、私の研究計画書全体がまだ焦点が絞り切れておらず、皆さんからのコメントは「全般にわたって、いただきたい」「何を指摘いただいても、本当にありがたい」という段階なのだというのが、正直なところですが。
以上、私の第1回目は「コメント」というものに終始するような形で終わりました。今回は発表者に対する質問やコメントが全体的にあまり出ませんでしたが、それだけ、質問する、コメントするというのは難しくなかなか高度なことなのでしょう。私も、活気ある質疑応答やコメントの場に貢献できる日はかなり遠そうですが、1年間、皆さん、どうぞよろしくお願いいたします。
◆さきさん
前回のオリエンは、私たちゼミ生は自己紹介だけで、先輩方の発表と上野先生との高度なやりとりを「見学」させてもらっていた。しかし、今回はいよいよ自分たちの研究計画発表である。観客席で感心していたら、突然バッターボックスに呼ばれたようなものだ。草野球しかしたことがないのに、いきなり大リーグに放り込まれた気分である。正直、不安で吐きそうだった。
発表が始まる前に、上野先生からコメントの仕方についてご忠言をいただいた。「コメントとは書き手が言いたいことを、よりよく伝えるためのアドバイスである。論の矛盾や説明の足りないところを指摘するにしても、まずはその人が何を言おうとしているのかを受け止め、その意図に沿って考える必要がある」。私は性格がひん曲がっているせいか、昔から人の文章を読むと、つい粗探しをしてしまう。「そもそも、この前提はどうなのか」「別の視点が抜けているのではないか」と、すぐに話を広げたくなる。上野先生の説明でいう「内在的」「外在的」のうち、どうも後者にばかり向かってしまうのである。
もちろん、外からの視点によって、その研究の可能性が広がることもあるだろうが、そもそも問いの射程にないものを次々と要求するだけなら、相手の研究への助言ではなく、こちらが読みたい別の論文を書けと言っているようなものだ。自分では批判的に読んでいるつもりでも、それが相手の役に立つとは限らない。これは耳が痛かった。
さて、司会やタイムキーパーのもと、あらかじめ決められた順番で発表が始まった。持ち時間は一人4分。この短さにも戸惑った。というのも、私はこれまで大学で哲学を学んでおり、3時間ぶっ通しの講義を聞いて、それでも「この人はいったい何を問いたいのだろう」と考え込むような時間に慣れきっていたからである。4分間。なんと短いことか。とはいえ、やらねばならない。問いを簡潔に、何を明らかにしたいのかを伝える。言葉にすると単純だが、これがなかなか難しい。
ほかのゼミ生の発表を聞きながら、懸命にコメントを書いていく。先ほどの助言を忘れず、有益なことを書こうとするのだが、気がつくと、また自分が気になることを書いている。発表を聞くのと同時に、自分のコメントにもツッコミを入れるので大忙しだ。発表が終わると、上野先生の容赦ない研究企画への指摘が続く。問いの射程は的確か。問いに対して、対象や方法は適切か。ピリピリした空気に、聞いているだけでも緊張する。
そのやりとりを聞きながら、研究計画を作るとき、関心のあるテーマを掲げることと、それを実際に調べられる問いにすることとのあいだに、かなりの距離があるのだと感じた。「インタビューをする」と方法を挙げれば済むわけでもない。なぜその人たちに聞くのか。何を聞けば、自分の問いに答えられるのか。方法を選ぶことと、その方法が問いに適していると説明することは、別なのである。
概念について考えるだけでなく、それが具体的にどのような行為や語りに表れるのか、何を見れば確かめられるのかまで考える。実証研究のこの作業が、私にはまだうまくできない。私がこれまで慣れ親しんできた哲学の勉強では、ある問いに対して、その前提を疑い、使われている概念を問い直し、さらに根っこの問題へとさかのぼっていくことが多かった。問いを立てることには多少は慣れているつもりだが、誰の、いつの、何を調べるのかと具体的に決める段になると、途端に足が止まる。
一方で、ゼミ生たちの研究計画は、どれも個性的で面白かった。発表が進むにつれ、身の回りの半径3メートルくらいのところにある問いは、こんなにも面白いのかと感じるようになった。大きな問題を掲げることと、面白い問いを立てることは、必ずしも同じではないのだろう。『情報生産者になる』の中でも、まず小さく、解ける問いを立て、一つの問いを解く過程を経験することが勧められていた。「やりたいこととやれることは違う」ーー終了後に上野先生から送られてきた言葉が頭に残っている。そうなのだ。知りたいことがどれほど切実でも、そのための資料にアクセスできるのか、集めたデータを扱いきれるのか、限られた時間のなかで研究を終えられるのかは、また別の問題である。研究計画とは、関心や意欲の表明だけではなく、実際に何をどこまでやれるのかを考えることでもある。
考えたい問いを持ち続けることと、それを実際に調べられる問いにすること。その両方をどうやって成り立たせるのか。なんだか私は、バットを振らなければいけないところで足元の土を掘り返しているような気がしてしまった。これまで鍛えてきた筋肉とは、別のところを使っている感じもする。土を掘ることをやめたいわけではない。ただ、必要なときには立ち上がって、球を打てるようにもなりたい。そしてあわよくば大谷翔平のような「二刀流」にだってなりたいが、まずは素振りからきちんと始めようと思う。
2026.10.03 Sat









