エッセイ

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萌え的「世界の名作」(1)悪魔の切ない恋物語 jackal

2010.11.13 Sat

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悪魔の切ない恋物語 『ファウスト』ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ

“Verweile dah! Du bist so schön!”――とどまれ!お前は美しい!

 これは、大博士ファウストと悪魔メフィストフェレスの合言葉だ。悪魔によって提供された新しい人生に充足を見出し、この言葉を口にした時――つまり、永遠に続いてほしいと願うような幸せな瞬間がファウストに訪れた時、彼の魂はメフィストのものとなる。それが、二人の間に結ばれた契約だ。

初めてこの台詞を読んだ時、私はこれが“時”や“人生”に向けて発せられたものとは知らず、「お前」とはメフィストのことを指しているのだと思った。「私にこんな幸せを与えてくれるお前はなんて美しいんだ、メフィスト!ずっと私の傍にとどまってくれ!」というような意味合いだと。

第一印象がそんな調子なので、私は「ファウスト」に今でも萌えっぱなしである。

 人間を哀れで無様な生き物と馬鹿にするメフィストは、神が「私の下僕」と寵愛しているファウストを「いただく」と啖呵を切る。神と賭けをするのだ。神の方も「よかろう!」といった具合にその賭けに乗ってくる。しかも「後で恥をかくことになるぞ」と自信満々。既にメロドラマ的展開。

 メフィストはファウストを我が物にするため、あの手この手で振り向かせようとする。皮肉を織り交ぜた巧みな話術で懐柔し、魔法や使い魔を用いて彼の望みを叶えていくのだ。ファウストが恋をすれば贈り物からデートのセッティングまで世話を焼くし、ファウストが権力者に気に入られるようお膳立てもするし、ファウストが心に傷を負えば魔女の宴に連れ出すなどメンタルケアまでしてあげるのだ。いくら魂を手に入れるための罠といっても、ここまで尽くせるのは中々凄いと思う。

 しかし、こんなに尽くすメフィストにファウストは決してなびかないどころか、感謝のひとつもしない。それどころか手ひどく罵倒することもしょっちゅうだ。それはファウストがツンデレだから――ではなく、彼はどんな時も心から満足し安らぐことはないからだ。常に何かに葛藤し、何かを渇望している。愛の喜びには肉欲の罪悪感が、家族を持つ安らぎには別れの哀しみが付きまとい、自分の支配する国土をどこまで広げても充足感は得られない。常に完璧を追い求め、手元にないものを次から次と欲しがって、どこまでも前進していく――立ち止まらないし、振り向かない。何一つ顧みないのだ、過ぎ去った時も、失った人も、もちろん傍に付き従うメフィストのことも……望むものが手に入らずに指の間をすり抜けていく苛立ちを、そっくりメフィストにぶつけてくるだけだ。「お前は美しい」なんて言葉は、論外。理不尽な話である。しかし、ファウストはメフィストの力を借りることで初めて前進し、その結果生まれる激しい(負の)感情を全てメフィストに向けている。屈折してはいるが、これもメフィストへのある種の依存の形と言えるだろう。決して、メフィストのものにはならないが。

 物語の後半で、いつも皮肉とおふざけと愚痴ばかり口にしているメフィストがこんな言葉をもらしている――「旦那が褒めてくれれば、満足だ」……もちろん、彼はファウストの魂を奪い取るという目的を忘れたわけではない。それでも、これから先に起こるクライマックスを思うと、もうこの悪魔が健気で気の毒で、読むたびに切なくなってしまう。

 メフィストの報われないラストを、是非見届けてやってほしい。きっと、この皮肉屋で捻くれていて、でも一途で哀れな悪魔と、聡明でまっすぐで、しかし高慢で残酷な博士が愛おしくなるはずだ。お勧めは小西悟氏の訳である。

 それにしても、神に愛でられ、悪魔に尽くされ、人間の娘に愛され、神話の美女まで魅了して……ファウスト、相当モテる。まったく罪作りな男である。








カテゴリー:萌え的「世界の名作」

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