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自立神話からの脱出 岡野八代
2010.12.10 Fri
アマゾンのサーバでエラーが起こっているかもしれません。一度ページを再読み込みしてみてください.自分の身の回りの世話をしてくれる女にお金を渡して、あれこれ買い物もさせ、食事も作らせながら生活できる男、そして、自分の子どもだと確信できるような形で「自分の子」を生んでくれるように女を囲っておける、そういう男の理想がどれほど長く世界を牛耳ってきたことか。もちろん、そういう理想男性像を何世紀にもわたって流布してきた哲学者たちは、こうしたぶっちゃけた言い方はしなかった。哲学者たちは、そうした男こそを、自立・自律的、合理的、理性的、さらには愛国者なのだ、と主張してきたのだ。この「自立」を強いる長い伝統が、女性に対する疑い深い態度や、男らしくないと周りから見られることの恐怖心や、男らしくない者たちへの侮蔑意識をどれだけ助長してきたか。こうした西洋政治思想史の歴史については、30年をかけてようやく翻訳されるに至った、スーザン・オーキンによる『政治思想のなか女』を一読されたい。
男性中心主義の典型的な書物が、フランスの哲学者ルソーの『エミール』だ。一方で、「人は生まれながらにして自由で平等である」と世界に向けて主張した、「人権宣言」、いや、正確にいえば、「男性と、男性市民の権利宣言」の基本的な考え方を構想した哲学者が、他方で、「女は欲望と必要の両方のために男に依存する。男とは女なしでもやって行けるが、女は男なしでやって行けない。女が身を持ち崩さずにいきていくために必要なものを得るためには、男がそれを与えなければならない。…女はわれわれ男の感情、男が女の価値につける値段、そして男が女の魅力や美徳をどれほど重んずるかに依存している」(『エミール』第五編)と大真面目に、女は男に依存し、女の価値は男が判断すると論じているのである。
アマゾンのサーバでエラーが起こっているかもしれません。一度ページを再読み込みしてみてください.と、ここまでつい、野田さんの依存と自立をめぐるエッセーを読み、なんだか熱くなってしまったが、大学院生のころ、とてもあこがれた存在がいた。いまでも、どうしても心から離れない。それは、水木しげる『妖怪画談』に有名な妖怪の一人(ひとり、と数えるのだろうか?)として紹介されている妖怪、〈ぬらりひょん〉、である。ちょうど、同書の100頁にでてくるあたりも大物感が漂っているのだけど、ぬらりひょんという、どこか人を食った捉えどころのない名前からも想像できるように、とくになにもしない妖怪なのである。水木しげる曰く、「夕方、人々がせわしくしているときに、どこからともなくやって来ては、勝手に家の中にあがりこむ。そして座敷でお茶など飲んだりする」、「時には主人の煙草を使って、ゆうゆうと煙草をふかしていることもある」、そんな妖怪なのだ。
ひとがせわしなく働いたりしているのを、ただお茶を飲んだり煙草をふかしたりして、眺めている。ぬらりひょんは、大家の旦那風にふるまうらしいのだが、とりわけなにか他人にするわけでもなく、また、そうした態度を人に咎められたりしないというのだ。
アマゾンのサーバでエラーが起こっているかもしれません。一度ページを再読み込みしてみてください.NHK朝の連続ドラマで高視聴率をあげた『ゲゲゲの女房』によれば、『悪魔くん』や『ゲゲゲの鬼太郎』が一世を風靡したのち、売れっ子作家となった水木しげるは、締め切りに追われる中で、なお「無為に過ごすこと」というモットーを仕事場に張り続けていたようだ。達成したい目的に向かって、最善の手段を選び取っていけ、と命令する道具的理性の対局にあるかのような妖怪たち。仕事に追われる中で、妖怪なんて本当はいないのでは、という疑心暗鬼にかられ、水木はスランプに陥ったりする。「もともと妖怪というのは、超自然な霊だから、形はなく、感じで読み取るのだ、と思うと、急に元気がでて」とかれがいうように(『妖怪画談』p.29)、なにか自分に語りかけてくる霊的なものを感じる力、というのは、わたしたちを元気にしてくれるのかもしれない。
アマゾンのサーバでエラーが起こっているかもしれません。一度ページを再読み込みしてみてください.水木が「急に元気がでて」スランプから立ち直るのは、かれが戦時中送られていたニューギニアを再度訪れ、ニューギニアの森の精霊をみて、「やはり、みえないけどいるのだ」と確信するからだ。売れっ子になって摩耗した見えないものを感じる力を再度獲得した水木は、その後また戦記マンガに力を入れ始めることになる。『総員玉砕せよ!』という長編漫画は、73年に公刊されているが、当時は『ゲゲゲの鬼太郎』の二度目のアニメ化がされたばかりで、子どもたちはじめ世間の多くの人々は、鬼太郎を書かせていた水木の情念が、戦記ものにも通底していたことには、あまり頓着しなかっただろう。数年ほど前に鳥取を旅行したさい、砂丘ではなく、境港にある水木しげる記念館 ――今では、『ゲゲゲの女房』ヒットのおかけで多くの観光客でにぎわっているという――を訪れることを選択する程度には鬼太郎ファンであったわたしも、朝ドラに触発され、『総員玉砕せよ!』と『敗走記』をようやく手に取った次第である。
91年に『総員玉砕せよ!』がコミック版として再販された際に水木は、「ぼくは戦記物をかくとわけのわからない怒りがこみ上げて来て仕方がない。多分戦死者の霊がそうさせるのではないかと思う」と「あとがき」に記している。
鬼太郎のアニメではあまり気づかされることない、写真かと見間違うほどの水木の精緻な筆致は、当時戦地で何が起こっていたのかを語る術をもはやもたない戦死者たちを、なんとか甦らせようとしている水木のすさまじい執念さえ感じてしまう。慰安所の描写から始まる本書はまた、国家の論理や戦争の論理が、見えないモノを感じさせる力をいかに邪魔者扱いするかが描かれてもいる。
見えないモノを感じる力は、現在の資本主義社会がわたしたちに刷り込む自立神話への一つの抵抗力なのかもしれない。
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