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「無邪気」をやめる日 anna
2011.01.21 Fri
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堀さんのエッセイを読んで、食べ物の歴史について思いを巡らせていると、小さい時に好きだった食べ物の味をいくつか思いだした。お腹を壊した時のすりおろしリンゴが魅惑の味だったこと。病気の時に母が作ってくれた、柔らかくてお皿いっぱいに広がっていたプリンの味。昔から私はおにぎりが大好きだけど、今でも自分で握るよりも人に握ってもらうおにぎりの方がおいしいのが不思議だと思っていること(このことはまさに『カモメ食堂』という映画の中で「コーヒーとおにぎりは人にいれてもらう方がおいしい」という言葉で出てきていたと記憶している)。
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しかし子ども時代の食べ物の記憶として根付いているのは実際に食べた物だけではない。物語や映画の中に、一度も食べたことがなくとも、魅惑的で心から離れなくなった食べ物がたくさんある。『アルプスの少女ハイジ』の白パンやヤギのチーズ、映画『クリスマス・キャロル』の、つめものをされた七面鳥、『赤毛のアン』などに出てくる「コケモモ」とか「ハシリイチゴ」といった未だに口にしたことのない名前の果物のパイ…。そういった食べ物の記憶は多くの人が持つようで、『絵本からうまれたおいしいレシピ』というムックでは、絵本の中の魅惑的なお菓子の作り方が沢山紹介されている。このムックの2号目では、『ちびくろサンボ』の「天井まで届くホットケーキ」が紹介されているが、私にとっては何といっても「トラのバター」、これがこうした食べ物のダントツの1番だ。トラが回っているうちに黄色くとろりとしたバターになってしまうなんて、これほど非現実的なこのくだり、なぜこんなにも「ありそう」で「美味しそう」なのだろう!今でも私は、トラがバターになったものがあったらぜひ、壷に集め、指でひとすくいして舐めてみたいものだと思っている。
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ところで『ちびくろサンボ』といえば、私が幼いころはごく普通に絵本が出回っていたが、その後パタリと見なくなった。有名なことだが、『ちびくろサンボ』は「差別的」な絵本であるという論調が高まり、廃刊となったからだ。その後再び再刊されるに至ったので、現在ではまた私にとっては懐かしい『ちびくろサンボ』の絵本が手に入るようになった。ちびくろサンボの差別性についての議論や廃刊・再刊については置いておいて、私が堀さんの言う「胡散臭」さを感じたのは、『ちびくろサンボ』廃刊に異議(あるいはとまどい)を唱える際に一般レベルでよく聞かれたように思う、「読者である子どもたちには悪気はないのに」というものだ。「子どもたちは純粋に物語を楽しんでいるだけだ」「無邪気な子どもたちである読者」という言い方だ。しかし、悪気がなければいいということではない、いやむしろ、悪気がないことほど怖いことはない、と思うのだ。
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数年前ディズニー・シーに行った時、あるショーを見てびっくりしたことがある。港に浮かぶ大きな客船を舞台に繰り広げられたショーだったのだが、明らかにメキシコ人の名前(出身地が明言されていたかどうかは定かでない)の少年二人が、違法に船にもぐりこみ、そこで色々な騒動が起きるが、二人は非常に心の優しい少年で皆に様々な善いことを行ったので、ミッキーがこの二人の乗船を許可する、というような内容だった(このショーは現在では終了しており、内容もはっきりとは調べられなかったので私の記憶でしかないことを付け加えたい)。そこで使われるメキシコ人の名前。アメリカにおけるその名前の持つ意味、喚起させる印象などというものは、日本の観客には特に感じられるものではないだろう。しかし、そうした気付かれないレベルの出来事が、いつの間にかショーを見る人々に、そういう役柄に与えられる名前としてメキシカンな響きの名前が「自然」であると「なんとなく」思わせることにつながるのでは…。子どもをディズニーランドに連れていくことがごく当たり前である首都圏で子育てを始める私は、(実はディズニーランドは大好きなのだけど)なんだか考え込んでしまった。先日友人にこの話をすると、「考えすぎだよ!そんな深く考えちゃだめ!」と一蹴された。でもそうじゃない。みんなが「考えすぎ」ないことで、他人が傷つく可能性について無頓着になってしまう。傷ついた、と主張する人には「悪気なかったし」と言ってしまう。悪くすると、「こっちは悪気ないのに過剰反応だ」とうすら言ってしまう。そして逆に自分が傷つけられた時私達は言うだろう、「何も悪いことをしていないのにどうして」「罪のない我々が傷つけられた」と。傷つけられるのは悪者だからではもちろんない。傷つける人たちが「無邪気」で「悪気がなく」、傷つける自分たちについて省みないから傷つく人ができるのだ。それならむしろ、と私は思う。悪気を持とう。悪気なく何かするくらいなら、自覚しよう。無邪気であるな、邪気を持とう、と。
次回「「悪意」の今昔」へバトンタッチ・・・・つぎの記事はこちらから
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