
「このひとがいなかったら・・・今のわたしはなかった」と、新版・中西豊子著『女の本屋の物語』(晶文社、2026年6月15日)の表紙に上野千鶴子さんは書く。そのとおり。みんな誰もが、そう思うだろう。私にとっても中西豊子さんは、私の「遅い、遅い女の目覚め」を蘇らせてくださった命の恩人なのだから。
中西豊子さんが、京都の町家を店舗にして書店を開業したのが1972年、40歳からの出発だった。そして「海外には女性の本の専門店がある。日本にも女の本屋が必要よ」という渡辺和子さん(55歳の若さで亡くなってしまわれたけど、思い出はいっぱい)の言葉に中西さんは共感し、10年後の1982年1月16日、日本初の女の本屋「ウィメンズブックストア」を誕生させた。
本棚には「女性論」「からだ・性」「こころ」「女性と仕事」「女性と法律」「女性史」「自伝・評伝」などの本が並ぶ。同時に女の本を紹介する「ウィメンズブックス」の会報も誕生する。編集長は木下明美さん。「ウィメンズブックス」友の会の会員は発刊当初、200人を超え、日本のフェミニストの増加とともにどんどん広がっていった。選書して本を紹介し、書棚に長く並べておくには取次ではなく、買取り方式しかない。だから「女の本屋」の本棚を眺めれば、いつでもほしい本が、すぐに見つかるのだ。
1984年6月、ロンドンで開かれた第1回国際フェミニスト・ブックフェアに中西さんは単身で参加。1986年、オスロの第2回国際フェミニスト・ブックフェアにも参加して、日本のブースを開く。世界各地のブックショップに女たちのネットワークがあることを知った中西さんは、遂に京都の「女の本屋」に日本の女たちのネットワークの場を誕生させたのだった。
本屋の2階に女のスペースが生まれた。古い二階建ての日本家屋の和室を改装して長机を置き、女たちのたまり場ができあがった。そこへリブの女たちやフェミニストたち、女性学研究会のメンバーや外国の女性たちも、鉄製の階段をトントンとのぼってやってきて、女たちの出会いの場となる。8畳と6畳の和室に、時には40~50人もの女たちが溢れて、床が抜けるのではないかと本気で心配するほど。このたまり場から『からだ・私たち自身』『資料 日本ウーマン・リブ史』全Ⅲ巻の編集や「女のフェスティバル」(1986年~1995年)の企画、「高齢社会をよくする女性の会・京都」など、いくつもの女のグループが次々に生まれていった。DVに悩んでやってきた女性は話を聴いてもらって、帰りはすっかり元気になって戻っていく。いつもその真ん中に中西豊子さんがいた。
そのシスターフッドの中から、ボストン女の健康の本集団著、監修/藤枝澪子 校閲/河野美代子・荻野美穂『からだ・私たち自身』(松香堂書店、1988年)が生まれた。藤枝澪子さん、荻野美穂さん、河野美代子さんをはじめ、本著の翻訳や編集にかかわった50人に及ぶスタッフ一人ひとりの顔写真が表紙裏を飾っているのも圧巻。
『からだ・私たち自身』の出版記念パーティが二条城横のホテルニューキョート(今はスーパー・デイリーカナートイズミヤ堀川になっている)で開かれた。素敵な表紙を装丁してくださった宮迫千鶴さんは真赤なドレスを着て。麻鳥澄江さんのバンドと歌にあわせて、最後はみんなで踊り終えた。あの宮迫さんも、今はもう、いらっしゃらない。
溝口明代・佐伯洋子・三木草子編『資料 日本ウーマン・リブ史』全Ⅲ巻(ウィメンズブックストア松香堂、Ⅰ巻(1969~1972)・1992年発行、Ⅱ巻(1972~1975)・1994年発行、Ⅲ巻(1975~1982)・1995年発行)は、枕のような分厚い重い3冊。この本と『からだ・私たち自身』は、ともに歴史に残る女たちの名著となる。その編集に私もかかわらせていただいたことは、なんともうれしい。
最初、『リブ史』の出版元を探して中西さんは当時、三一書房社長だった荒木和夫さんに依頼されたが、残念ながら断られたらしい。荒木さんは豊子さんと京都府立山城高校の同級生で、1953年11月、「荒神橋事件」で京大の学生デモ隊が警官隊と衝突。そのリーダーだった荒木さんは京大を停学となり、後に三一書房社長となる。豊子さんは女学校3年の時、戦後の学制改革で男女共学となり、入ってきた男子学生たちが、スラスラと論語を読み、数学のレベルも高く、その学力差を目のあたりにして教育の男女格差に愕然とする思いがしたという。仲のいい同級生には先の荒木和夫、映画監督の伊丹十三、阪神タイガースの吉田義男らがいた。みんなもう、鬼籍に入ってしまわれたけど。心当たりの出版元すべてに断られた中西さんは、『リブ史』をウィメンズブックストア松香堂書店から出すことを決意した。
余談だが、三一書房の荒木和夫さんから1977年、私の元夫に「三一新書から本を出してみませんか」と声をかけられ、八木晃介著『差別のなかの女性 底辺を歩いた母たち』(三一新書、1978年)を出していただいた。当時、ゲラのやりとりをあれこれ手伝ったのも、その頃の思い出の一つ。
1970年代に始まった日本のウーマン・リブの運動は、1971年8月、信州のリブ合宿を経て全国へと広がっていく。リブの女たちは各地で「ミニコミ」を出していた。その膨大な資料を集めていた溝口明代さんたちは、「ぜひこれを本にまとめたい」と考えていた。名古屋の溝口明代さんのお宅を訪ねた中西さんは、数箱のダンボールに納められた膨大なミニコミ資料を見て、「これを本にまとめるのは大変やな。えらいこっちゃ。でも女たちのミニコミはぜひ世に出さなくちゃ」との思いで早速、編集にとりかかった。豊子さんはミニコミグループの著者・編者たち一人ひとりに丹念に手紙を書く。「来る日も来る日も手紙を書いた。原稿の督促、問い合わせ、連絡,お礼状、お尋ねに対する返答」等々。腱鞘炎になっても書き続けられた豊子さん。『リブ史』刊行後、あの、ややこしいリブの女たちから何ひとつ文句が出てこなかったのは、すべて中西さんが書かれた、お手紙の力が大きい。
出版に際してトヨタ財団の助成金を申請する。審査にやってきた男は全く女性問題のことはわからない元学生運動の活動家だったが、膨大な編集作業を目にして、女たちの熱い思いを聞いて感激されたのか、無事に助成金を獲得する。150万円ほどだったかな。
できあがった本は、どんどん売らないといけない。豊子さんは再び全国の図書館や大学図書館に売り込みの手紙を書き、次々と本の納入が決まっていった。あの分厚い本の出版が、全く赤字を出さずに済んだのは、すべて豊子さんの営業力のすごさによるものだ。すばらしい。
これらの本は今、WAN「女の本屋」のサイトにすべてアーカイブで入っている。国会図書館にも。世界中から年代を超えて誰もが読むことができる。WAN「ミニコミ図書館」のアーカイブをつくってくださったボランティアスタッフの方々のお力に、心からの感謝を捧げたい。
やがて「女の本屋」の二階に「フェミネット企画」が生まれた。ここから私と中西さんとの仕事のおつきあいが始まる。1999年施行の男女共同参画社会基本法を前に、「男女平等と共同参画の21世紀社会をめざす京都府行動計画(KYOのあけぼのプラン)」策定(1989年)に伴い、「女の本屋」のすぐ横の京都府庁から女性政策課長が本屋の二階に駆け込んでこられた。「女性の啓発誌や女性講座、イベントをやりたいので相談に乗ってほしい。そのために個人の本屋ではなく企画会社を立ち上げてはどうか」という提案だった。
それを受けて豊子さんは女の企画会社「フェミネット企画」を立ち上げた。その後しばらくして、中西さん自ら、近くに住む私の家を訪ねてきてくださり、「フェミネット企画で、あんたも手伝ってくれない?」と声をかけてくださったのだ。私の2冊の本、『女(わたし)からの旅立ち 新しい他者との共生へ』(批評社、1986年)と『関係を生きる女(わたし) 解放への他者論』(批評社、1988年)を「女の本屋」に置いてもらい、「女のフェスティバル」でも、ごいっしょしていたこともあって。
当時、私は元夫と離婚したばかりで、北陸の内灘への離婚旅行から帰ってきてすぐ職安に行ったら、46歳の専業主婦に「残念ながら仕事はありませんね」といわれ、やっと見つけた京大病院前のお蕎麦屋さんで働いていた頃だった。それから10年あまり、『からだ・私たち自身』の編集にもかかわっていた、ふじみつこさんと二人でフェミネット企画を担当することになる。企画、編集、取材、写真撮影、広告とり、割り付け、版下づくり(当時はまだ写植の時代だった)等々。1994年、「女の本屋」が大阪天満のドーンセンター1Fに移転した後も(2002年から森屋裕子さんが店長の「ウィメンズブックストアゆう」となる)、ふじみつこさんと二人で小さなアパートを借りて仕事を続けていった。
女性問題啓発誌「KYOのあけぼの21」の発行、女性講座「KYOのあけぼの大学」の講師派遣、「KYOのあけぼのフェスティバル」を年1回、宝ヶ池の国立京都国際会館で開催。1000人を超える人々が集まった。近県の「男女共同参画プラン」つくりにもかかわっていく。
これらの企画の入札には電通、博報堂など数社に混じってフェミネット企画も参加した。男たちは女性問題の何たるかも全くわからず、形だけを整えてやってきた。私とふじみつこさんと二人で、中西さんと相談しながら企画書をつくり、無事に落札。潤沢な予算もついた。
「KYOのあけぼのフェスティバル」で思い出に残っているのは、作家の五木寛之さんをお招きして「暗愁」のタイトルで講演をお願いした時のこと。
ずっと昔々、元夫に3年間でラブレターを200通書いたことを、ふと思い出し、五木寛之著『内灘夫人』の主人公・霧子に寄せて五木寛之さんに講師依頼のラブレターを書いたら、なんと、ご本人から「行きますよ」とお返事をいただいたのだ。会場にお迎えした当日は雨だった。バーバリーのレインコートを手にした五木寛之さんと並んで歩いて楽屋へお連れしたのも懐かしい思い出の一つ。
世界のフェミニストたちが京都へやってきた。ベティ・フリーダンもジュディ・シカゴもニキ・ド・サンファルも、豊子さんの呼びかけで。フェミネット企画も、ニューヨークからジャズピアニストの秋吉敏子を迎え、当時、ニューヨーク在住のサックス奏者・MASAの「Swing MASA Band」と京都国際会館で共演してもらったこともある。
そして「女の本屋」の強力なスタッフはなんといっても豊子さんの娘さんの中村美奈子さんだ。「経理の一切、経営に必要な事務一切」を取り仕切っておられた。本の発送も、あんなに見事に荷造りをされるのかと思うほど完璧に。趣味のウィンドサーフィン好きが高じてハワイのマウイ島にレストランを開いて移られたが、帰国後の今も年に数カ月、マウイ島でサーフィンを楽しまれている。
私は、といえば情けないことに豊子さんから叱られてばかり。離婚後の日々、メソメソしていた私。元夫から舅の食事の世話を頼まれ、近くの家へすぐ駆けつける私を見て「あんたはフェミニストの風上にもおけない女ね」と呆れられ、たしなめられてばかりだった。
豊子さんの京料理は、とびきりおいしい。豊子さんが育った大店の2階から祇園祭の山鉾巡行を眺める日など、行事のたびに台所にプロの料理人がやって来て、出汁のとり方や京料理をつくるのを子ども心にじっと見ていて、しっかり覚えたという。豊子さんのおうちの近くに住む私も「おいしいもん、食べにおいで」と誘われ、お話をしながら御馳走をいただくのが、とってもうれしいひととき。
そしてウィメンズアクションネットワーク(WAN)の誕生については、新刊に上野さんが追記されている。「もう活字の時代は終わり。これからはウェブの時代」と、いつも一歩も二歩も先を歩かれる中西豊子さんの発想から、2009年5月、WANはスタートを切った。その立ち上げの企画会議も豊子さんのご自宅に女たちが集い、わいわいガヤガヤ、おいしいお料理をいただきながら、またたく間に進んでいった。女たちのポータルサイトは世界でも、まだ珍しいとか。
中西豊子さんは誰よりもいち早く新しいことに着手され、それが軌道に乗ったと見るや、すぐに若い人たちにバトンを渡され、あとは一切、口出しされないのが豊子さんの流儀。そうやってWANも確実に若い人たちに受け継がれていくことだろう。大きな期待を込めて若い人たちを応援しよう。
65歳で亡くなられた夫の中西亮さんのことは本書に詳しいので、どうぞお読みあれ。世界の古代文字を訪ねてアフリカのサハラ砂漠や東南アジアの密林の奥深く、ヘリコプターが落ちないかとハラハラドキドキしながら、お二人で活字を探しに行かれた危険な旅の数々を何度も伺ったことがある。亮さんが亡くなられた後、豊子さんが「夫は私に残り時間を、たっぷりくれたのよ」とおっしゃった一言が、今も忘れられない。
「一人で生きる、女として」。なんてカッコいいのだ。中西豊子さんは、女たちみんなにとっての女の助言者「ウー・メンター」なのだ。「この人がいなければ、私たちはいない」。私より10歳年上の豊子さん、いつまでもお元気でいてくださいね。これからも、ずーっと豊子さんを見習って私も生きていきますから。









