徴兵検査の日
個人的な思い出からこの稿を始めたい。我が家には息子が二人いる。上の息子が高校生の時、18歳になったので、兵役検査があった。その時点ではドイツには徴兵制が実施されていたのだ。その日、息子が検査のために出かけていった後、私は言いようのない嫌悪感に襲われた。私から命を受け継いだ息子が今、「人を殺すに相応しい人間かどうか」を見極められている。そんな非人間的な目的のために私は息子を産んだのではない。それはしかし、そのような理屈を超えた、内側から湧いてくる生理的な悪寒だった。もちろんそれまでメディアでの報道で、はたまた小説や映画・演劇で、徴兵検査についての知識は十分あった。が、実際に自分で母という立場で経験してみると、徴兵とはこんなにも嫌なものだということが初めて分り、何か世界が根底的に違って見えてくるような気がした。日本で「甲種合格」とか「赤紙」とかいう言葉が日常の語彙にあった世代はもはや社会のごく一部となり、戦争に対するこのような感性もまったく忘れ去られているのだとあらためて知った。憲法九条の改正議論などを主導しているのは、圧倒的に戦後世代であるのを見て、その思いを強くする。
息子は結局、兵役を拒否し、社会奉仕として、近隣の特別支援学校で教師の補助をした。それは結果的には、彼の人生で価値ある経験とはなったものの、原点の兵役検査のことを思い出すと、私にはあの嫌悪感が今でも昨日のことのようによみがえる。その後ドイツでは、1956年に始まった戦後の徴兵制が、2011年に廃止され、国防軍は現在まで志願制によって構成されている。それは、冷戦が終結し、東西ドイツの統一が実現して、ドイツの安全保障環境が大きく変わったこと、青年男性にとって徴兵制がかなりの負担であり、徴兵回避と軍事反対の機運が高まったこと、志願制の軍隊を組織する方が専門的効率的であったことなどの理由による。ちょうどその切り替わりの時期に当たったため、うちの下の息子は徴兵を免れた。
ウクライナ難民とロシア人
ところで、徴兵制については、最近暗い気持ちになった報道がある。ドイツには2023年末までの時点で、ウクライナから110万人の難民が入国している。84%は女性で、そのうち58%が子ども連れである。兵役年齢の男性は、ただいまロシアとの戦争に駆り出されており、出国が禁じられているからである。ところで2024年4月末、ウクライナ政府は、国外に住む18歳から60歳までの男性に対し、その居住国におけるパスポートの発行を停止した。これは、兵役年齢にあるウクライナ人男性は、ウクライナ国内でのみパスポートを取得できることを意味している。たとえばドイツに逃げてきた兵役年齢の男性のパスポートの有効期限が切れた場合、ドイツ国内の領事館や大使館ではもはやその延長の申請ができない。つまり、こうしてウクライナ政府は、ウクライナ男性の徴兵を公平にして、軍への動員を増加させようとしているのだ。このニュースが報じられると、法律が正式に施行される前に、かけこみでパスポートを更新しようと、ドイツを含むEU諸国の領事館前に男性たちの長蛇の列ができたが、申請書類は受理されなかったという。自分自身、徴兵制への生理的抵抗感を経験した私は、この措置の是非を問う以前に、その報を聞いたウクライナの母たちに思いを馳せた。彼女たちはどれほどの苦悩を抱えていることか。
戦争が起きると、その当事国の人々、前線で戦っている兵士たちはむろん大きな被害を受けるが、その後背地でも、戦争に連動してさまざまな問題が起きる。私の本業は、デュッセルドルフにある公文式教室の指導者だ。私の教室には今、ウクライナ難民のこどもたちが全部で9人いて、算数や英語を学習している。戦争が始まった2年前、ウクライナの児童養護施設にいた300人ほどのこどもたちが、施設で面倒を見切れなくなって、デュッセルドルフ周辺に退避してきた。当地に既に在住していたウクライナ人女性のイニシアティヴで、彼らを支援するNPOが設立された。公文に来ているのはそのこどもたちの一部だ。2年前はもっと多かったのだが、何人かは職業訓練が始まって時間がなくなったり、またある少女は、止める人々を振り切ってウクライナに戻ったりして、人数が減った。最初の1年半は、公文のドイツ事務局から特別許可をもらい、無償で学んでいたのだが、戦争が長引いて免除措置も終了となり、今は、私とそのNPOとでこどもたちの学費を出している。

公文式教室のウクライナ生徒たち
来たばかりのころ、こどもたちの表情は硬かった。コミュニケーションは、大昔学んだほとんど使い物にならない私のロシア語とスマホの翻訳機能で、宿題の指示一つにも困難があった。一方、私の教室にはロシア人の生徒も多く、運よく同じ時間帯に教室内にいれば、彼らがウクライナの生徒たちのために通訳をしてくれた。真正の孤児も含む児童養護施設のこどもたちは、ウクライナにいてさえ難しいのに、それがドイツにやってきたのでは、どんなに大変なことだろう。しかし、2年以上経つ今、こどもたちはかなりドイツ語で意思疎通できるようになり、ドイツ語で九九を暗誦できるくらい上達した。宿題もまずまずサボらずやってきて、学校でもなんとかなっているようである。
そして、ロシアとウクライナのこどもたちは、それぞれの国が敵対して戦争をしているにもかかわらず、互いに何のわだかまりもないのだった。すでにこの国に長く住んでいるロシア人のこどもたちが、親切にウクライナのこどもたちの面倒をみているというのが、私にとっては感動的にすら見えた。だが、やはり問題が起きた。ある日、ロシア人の女子生徒の母親から電話がかかってきた。公文からの帰り道、行き会ったウクライナの男の子から唾を吐かれたというのだ。暗かったから誰か特定はできなかったが、あんなにウクライナのこどもたちのために通訳までしていたのに、恩をあだで返す行為だとその母親は電話で息巻く。私はすぐウクライナのNPO責任者の女性にその件を伝え、彼女もショックを受けた。その後、ウクライナのこどもたちの間でもこの問題についていろいろな話し合いがもたれたらしい。しかしどうしても、誰がそれをしたのか、白状しなかったし、他の子もそれを言いつけたりはしなかった。結局、互いに不愉快なまま、これ以上問題を大きくすると、うちの子が教室に行くのを怖がるかもしれないとロシア人の母親から、「もう忘れましょう」と申し入れがあった。それ以降、時折教室で、ロシア人とウクライナ人のこどもたちのコンタクトが生まれるが、私も自然に任せている。
ただし、ロシア人の母親から怒りの電話がかかってきたのは、それなりの理由がある。ウクライナでの戦争が起きてから、ドイツ在住のロシア人は生活のさまざまな面で迫害を受けている。戦争勃発直後は、特に音楽関係のロシア人たちには厳しい状況が続いた。ロシアを支持しないことを表明せよと踏み絵のように迫られて、ミュンヘン・フィルの首席指揮者であるヴァレリー・ゲルギエフも職を解かれた。ロシア人に対する暴行や財産に対する破壊行為などヘイトクライムも増加した。一方、ロシア国内で徴兵の危険性が高まるとともに、ロシアから兵役を逃れて来る者が激増している。25万人近くは、カザフスタン、ジョージア、アルメニア、トルコなどに滞在していると見られているが、ドイツにも3000人近くが兵役を拒否して亡命を希望している。もっとも、こちらの亡命申請が認められることは非常に難しいという。私も、ロシアからスペインに逃げるロシア人の母と息子が、クレジットカードが使えなくて困っていたのを、お金を立て替えて助けたことがある。彼らはいったんトルコに出国し、そこからスペインに移住した。あらためて、ヨーロッパの国境がどれほど近く、人の移動が簡単なことか思い知った。
ガザの戦争
ところで、ウクライナの戦争に続いて、昨年はイスラエル、ガザでも戦争が起きた。これは、ホロコーストという歴史的な傷を持つドイツならではの苦悩となる。当初のハマス攻撃直後の圧倒的なイスラエルへの支持から、自衛のレベルを大きく超えたガザで拡大するパレスチナの犠牲者について連日報道されるようになり、ドイツ国内の空気は微妙に変化した。パレスチナに連帯し、ガザでの虐殺に抗議するデモも増えた。これらのデモを「反ユダヤ主義」とひとくくりにするのは明らかに間違いだが、カテゴリー上は、そう分類される。過去の亡霊に怯えるドイツでは、いきおい親パレスチナのデモに対する警察の弾圧が厳しくなる。連邦捜査局の統計によれば、2023年には、反ユダヤ主義のヘイトクライムは前年の2倍に増加しており、10月7日以降は5164件にのぼるという。その逆に、同年に起きた反モスリムのヘイトクライムも同じく増加しており、10月7日以降は493件である。いずれにせよ、この戦争により、ドイツ国内にも大きな亀裂が走った。日本のリベラルの間では、あれほどホロコーストの歴史に対して深く反省したドイツであるのに、今ここでパレスチナ側に立つ人々を弾圧しているのは、ダブルスタンダードだという批判も多く聞かれる。イスラエルが、ドイツの主要な武器輸出国であることも含めて、ガザでの戦闘に間接的にドイツも加担しているとドイツの責任を問う声も大きい。
しかし、現地で日本のリベラルによるドイツ批判を見ていると、何か少々偏っている印象を受けざるを得ない。少なくとも、一般的なドイツ人は、ネタニヤフ政権を無条件で支持しているわけではないし、パレスチナの人道危機に批判的な立場の人も多い。1月末、「10月7日のハマスの襲撃以降-『反ユダヤ主義』と『反イスラム主義』のはざまにある教育現場」という講演会が、「デュッセルドルフ大学旧屠殺場跡追悼記念館」で行われるというので行ってみた。印象に残ったのは、大学の階段教室が満杯で、立ち見や階段に座っている参加者が何人もいたことだ。講師は、自分自身移民だらけの町、デュイスブルク、マルクスロー出身というトルコ人の、政治教育・包摂担当プロジェクトの教師だった。出身地の町で、たぶん自分がそのような地位に就いた初めての人間だろうという。彼は、ノルトライン・ヴェストファーレン州のあちこちの学校を回って、移民の生徒たちをめぐるサポートをしている。その彼が、このガザの戦争以来の悩みについて率直に語った。「モスリム=新しいナチス」という偏見といつも闘わなければならず、自分は反ユダヤ主義者ではないことをいつも証明しなければならない。その一方で自分はイスラエルを憎まなければ、モスリムとは言えないのかと自問させられる。ドイツでホロコーストの歴史を学びながら育った自分、かつモスリムとしてのアイデンティティに引き裂かれる自分の難しさを切々と語った。会場には、学生のほか、歴史科の教師も多く、ガザの戦争が起きて以来、学校内での移民のこどもたちの抱える難しさについて、講師の言葉への共感をもった発言が次々と続いた。

アーヘンのシナゴーグ内部。ユダヤ教の祭具やトーラー、ユダヤ教で使う典型的な形の燭台が展示されている。このような展示物こそが、旧ソ連地域から移住してきたユダヤ人たちのアイデンティティを促すかのように。
ところで、もう一つエピソードをはさみたい。先日、友人がコンサートをするというので、アーヘンのシナゴーグを訪ねた。中心部からほど遠くない場所にあり、厳重な警戒が敷かれていて、管理人からパスワードをもらって、建物内に入る仕組みになっていた。7本の燭台が置かれていたり、歴史を伝える展示もあって、いかにもシナゴーグに相応しい。ところで驚いたのは、その日集まった30人ほどのユダヤ人信徒たち全員がロシア語を話していたことだった。彼らはいったいなぜロシア語を話しているのか。どのような経緯でドイツに住んでいるのか。がぜん興味が出て、帰宅してからいろいろ調べてみた。
すると、1991年以降に、ロシアからユダヤ人としてドイツに20万人が移住してきたということが分かった。ホロコーストの過去を持つドイツが、彼らの移住をユダヤ人というだけで積極的に認めた結果である。ところで彼らは、年代から言っても、ホロコーストとは多くが無縁であり、故地であるソ連の精神風土を受け継いで、宗教にあまり関心がないという(武井 註)。何よりも彼らは、私が実際に見たようにロシアへの帰属意識が強く、ドイツ人がいわば期待した「ユダヤ人」像を体現していないという。さらに興味深いのは、このシナゴーグの共同体にはウクライナからの出身者も多いことだ。彼らは、ウクライナ、ガザと続く二つの戦争の中で、二重にも三重にも排除の対象とされているばかりか、共同体内部にも仲間同士の軋轢がある。
戦争と移民社会
戦争の後ろ側にあるのは、グローバルな人々の動きが加速する今日の移民社会の現実だ。ここが、先の大戦の、まだ国民国家の枠組みが維持されていた時との大きな違いである。ひとたび戦争が起きると、それは爆撃を受けて、徹底的に町を破壊される戦争被害者や、前線で戦う両軍の兵士たちのみならず、その背後にある国々の人間関係をも破壊する。人々の心に憎悪と不安を引き起こし、こどもたちの間に至るまで争いを生む。とすれば、今世界で起きているのは、決して局地的な問題ではないのだ。
私たちは等しく目の前の社会でこの現実に向き合っている。それは逆に言えば、その戦争を平和に導き、人々の暮らしをもとに戻すのは、戦争当事国だけではなく、この私たちの目の前の一歩からである。ここが世界につながっていることを思う時、私たちが選挙で一票を投ずる代表者、私たちの日ごろの生活の中で、政治に対して挙げる声、抗議のために街角で行うデモ、そこから戦争を解決する試みと戦争を未然に防ぐ取り組みが始まる。戦争の後ろ側にあるドイツからそれを、同じく多文化移民社会に移行しつつある日本の読者に心から訴えたい。
註 武井 彩佳 「可視化するドイツのユダヤ人社会 一ロシア系ユダヤ人の移住とその後一」2010
『現代の理論』2024年夏号より転載
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