④ 分籍と創氏

とにかく二十歳前だった。戸籍に関する本を読んで、「分籍」という手続きが二十歳になればできるということを知った。紫色をした本だった。初めて自分の戸籍を見たのがいつだったのか思い出せないのだが、私は自分の戸籍の筆頭者欄に父親の名前がデーンと大きく記載されて、次に妻である母の名前、私の名前がおまけのようにくっついてくるその形が気に入らなかった。形だけ家族なんてまっぴらだ。私の家族は母だけでいい。二十歳の誕生日を迎えてすぐ、私は当時の本籍地の市役所の窓口へ赴いて分籍の手続きを申し出た。本によれば、分籍する際には役所の人から、「分籍するともう二度と親の戸籍には戻せませんよ」と脅しめいたことを言われるとあったが、何のことはなかった。窓口の人はまだ幼さの残る私の顔を怪訝そうにチラッと見て、ごく淡々と事務手続きを進めた。渡された紙を見て、自身の名前が筆頭者欄に記載されているのを、形だけだが父親と離れた気がして清々しい思いがした。振袖を着るでもなく、私らしい成人式を決行したのである。

私が読んだ紫色の本は「FOR BEGINNERS 戸籍」(佐藤文明著、貝原浩イラスト、1981年、現代書館)だった

そういう行為を母は、「玲子らしい独立心の表現」と受けとめてくれたが、父はどうしても気に食わない。「食べさせて、住まわせてやってるのに・・・」と言われた。それはそうだと私は家を出た。同級生の一軒家の離れの部屋が空いているからと、しばらくその部屋から通学した。
分籍をしてから、「姓」について考えるようになった。父親の姓を自分にひっかぶせて名乗るのは欺瞞に思えてきた。それは母がたまたま結婚した男の姓なだけで、私の血肉はその男の姓を嫌がっていた。母の旧姓は江﨑と言ったが、母が結婚して棄てた姓をのこのこ拾いに行くようなこともしたくなかった。これまでに会ったことのある人の姓は、その人のイメージが明瞭に浮き上がってくるので、それも対象外だった。
私が選んだ時任という姓は、分籍する少し前に読んだ、志賀直哉の「暗夜行路」の時任謙作に由来している。小説の中で謙作が、兄は父から愛されるのに自分は父から愛情を得られない葛藤に遭い、出生の秘密を知った時に、「自分の先祖は誰でもない、自分自身だ」と言った。私はその言葉に共鳴したのだった。それとともに、もう一つ。渡辺淳一さんの「阿寒に果つ」の時任純子(渡辺さんの初恋の女性がモデルだそう)にも魅力を感じ、私は「自身の姓はこれしかない!」という思いで時任を名乗り始めた。
のちに私は、出版記念トーク&サイン会で来阪した渡辺さんご本人にお会いした。サインの順番が来た時に名前を尋ねられ、「純子さんの時任と、王様の王に命令の令です」と答えたら、「いい名前だ」と言われ、うれしかったことを覚えている。

渡邉淳一さんに名前を書いてもらったサイン本も宝物の一つ

「時任玲子」という名で最初に形に残るものを作ったのは、確か「二十歳の献血」時の献血カードだったと思う。それから先は、名乗る際は「時任」と名乗った。新たな場面で名前を書く時を重ねていって、自身が時任玲子であることを確かめるのが当時は趣味のようで楽しかった。学生時代はナレーションや司会のアルバイトをしていて、地方巡業もあった。繁忙期はほぼ毎週飛行機に乗って、多くは金曜の最終便で現地入りし、翌土曜の朝から会場で働いた。日曜に仕事を終えて最終便で大阪に戻るか、チケットが取れない時は月曜朝の飛行機で戻り、そのまま大学の授業に出た。その仕事の時も「時任」姓で働いた。卒業後、久しぶりに連絡を取った学生時代の友人は、私が結婚したのだと思ったらしい。姓を変えるのって、意外と簡単だと思った。

電車に乗っていた時だった。座席に腰かけていたら、目の前の人が広げた新聞に「つくば博コンパニオン募集」の記事が目に入った。たまたま目にした記事で求人を知り、調べてエントリーし、試験と研修を重ねて私はいよいよ親と暮らす大阪を離れた。お金の要らない寮付きで、生活家電も、暮らしに必要な包丁やまな板や布団まで付与され、閉幕後はすべて引き取らせてもらえて自分のものになる。しかも引越費用も上限付きだったが負担してもらえる好条件だった。身軽だったので安く済んだ。渡りに船!の勢いで私は関東へ住まいを移した。大学の卒業式は、新幹線に乗って参列し、母とだけ会ってとんぼ返りで関東へ舞い戻った。全員が私と初対面となる環境をこしらえて、私は気持ちよく時任玲子で働いた。英語が使えたのも重宝がられた。500人以上いた協会コンパニオンの中で最年少リーダーにも選ばれ、そのお陰かどうかはわからないけれど、閉幕後はそのままつくば博協会コンパニオンを教育管理した株式会社リクルートに就職した。配属されたのは教育機関広報部という部署だった。

つくば万博(1985年3月17日~9月16日)では、前期はセイシェル館、後期はポルトガル館のコンパニオンを務めた

母は会期中に二度ほど「つくば万博」で働く私に会いに来てくれた。イギリス館ウエッジウッドのお店でアフタヌーンティー

つくば博開催中に母は離婚が成立してやっと自由になれたはずだったのに、離婚後半年経たぬうちに自死した。母の預金を相続する際、分籍後の戸籍を銀行に持って行ったら、「これではお母さんの娘さんであることが証明できません」と言われ、やむなく昔の分籍前の私の戸籍(その時すでに父は再婚していた)を取り寄せて提出したら、それを見た銀行の係りの人から「汚れてますなぁ」と言われた。私は思わず、「私のどこが汚れてますか⁉ あなたに差別される筋合いなんてありません‼」と叫んだことを覚えている。
戸籍なんて大嫌いだ。普段おとなしくしているのに、人生の重要な場面にだけ顔を出して、これでもかと大きな顔をする。イケズそのものだ。

当時まだ住民票など戸籍に由来する表記は父親の姓のままだった。大学の卒業証書と運転免許証が昔の姓だったが、別にこれと言って不便はなかった。社会で働いて生活者として生きているのは時任玲子である。年金手帳もそうだ。だがオートバイで都内を走っていた時、右折禁止を知らずにきれいにカーブできたと思ったところで捕まってしまった。右折しようとウインカーを点滅させてタイミングを待ち、きれいに右カーブを決められたと思った矢先に警官が立っていて、ピピーッと笛を鳴らした。私は納得できなくて、「あなた、私が右折のウインカーを点滅させて待ってたのを見てましたよね。なんでその時に注意しないんですか? そのタイミングで言ってくれてたら無駄なお金支払わずに済むんです。私はお金ありません!」と食い下がったが、相手は国家権力の手先である。聞く耳を持たず切符を切った。無駄なエネルギーを消耗したくなかったので、仕方なく免許証に記載通りの名前を書いて、その時無職だった私はどうしても悔しくて、職業欄に「女優」だと書いてやった。その時に、免許証の裏に「時任玲子」と自分で書いていて、それを見た係りの人が、「これは公文書偽造に当たりますよ、ま、今回はいいですが・・・」と言われたことがきっかけとなって、私は家裁に氏の変更の申し立てをした。1986年、誕生日を過ぎて24歳の時だった。母が亡くなった年で、その時は横浜家庭裁判所に申し立てたのだが、担当した女性は、「まだ使い始めて年数が経っていませんから、またいつ親の姓がよくなるかもわかりませんから」と言って許可しなかった。最初の氏の変更の申し立ては却下されたのだ。女優さんのようにきれいな女性で、パールのイヤリングをされていたのを覚えている。(続く)