新聞の書評欄を見ていましたら、奥田亜希子著『運命の終(しま)い』という本が紹介されていました。そして、その物語の最終盤で主人公が語ることばが引用されていました。「上下関係が固定されているパートナー関係は、もう誰とも作りたくない」と。(朝日新聞2025年6月28日)

 この一文が胸に刺さりました。「上下関係が固定されているパートナー関係」って別になんの変哲もない、どこでも見られるカップル関係を言っているに過ぎないのですが、私にとっては、従来の日本の結婚したカップルの関係をぴたりと言い当てた絶妙な表現と思われました。こう言えばいろいろな現象をひと括りにして表現できるんだと。

 戦前ですと、食事の席は、夫は上座、妻は下座と、上下関係が目に見える形で存在しました。お風呂に入るのも必ず夫が先でした。戦後になって、こうした物理的な上下関係は見えなくなりましたが、見えない形の上下関係はいたるところに残っていました。

 息子は四大まで行かせるが、娘はせいぜい短大でいい、という多くの親たちの考えのせいで、結婚するカップルにも学歴の上下関係はできましたし、学歴の差は給料にも反映するので、おのずから経済的にも上下関係は生まれました。

 もちろんことばにも上下関係はあらわれます。

 少し前までは、妻を「おい」と呼び、「おい、新聞どこ?」のように言った夫もいましたが、上位にいるからこそ言えることばでした。「お前」も同様です。「お前は何食う?」のように、妻のことを「お前」と呼ぶ夫が以前はたくさんいました。今もいなくなったわけではありません。「お前」は昔は上位の人に向かって下位の人が「お前さま」のように呼んだ敬語でしたが、次第に敬意がなくなって、今では「同等または目下の人をやや乱暴に呼ぶことば」(『三省堂国語辞典』)と書かれているように、「同等または目下の人」にしか言えなくなったことばです。

 では、夫が妻を「お前」と呼ぶのは「同等だから大丈夫」と言えるでしょうか。いえ、夫が妻を「お前」と呼ぶのは、妻を「同等または目下の人」の「目下の人」と見ていて発せられることばですから、大丈夫ではありません。それでも、中には、辞書にも書いてあるとおり「同等」と扱って呼んでいるのだから「文句言うな」と言う夫さんもいるかもしれません。いえ、それも違います。「俺とお前は同じ釜の飯を食った」などと男同士が言うときは「同等」ですが、妻に対する「お前」は、同等ではありません。ほんとに同等だったら、妻から夫に対しても「お前、ちょっとビール買って来て」と言えるはずですが、それは言えない。言えないのは同等でないからです。

 もうひとつ、夫の気に入らないことを言うと、「だれのおかげで食わせてもらっているんだ」という暴言が妻に吐き出されることがよくありました。経済的な上下関係が言わせたことばでした。いまさら引用するのもはばかられますが、憲法24条には

「婚姻は両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない」

と書かれています。残念なことに、「同等の権利」が妻には保証されていない上下関係がずっと続いてきました。

 21世紀になって、人権尊重、ジェンダー平等の教育も徐々に普及してきて、さすがに「おい」だの「お前」だの、上下関係を示すことばを使うカップルは少なくなりましたが、いまだに夫をどう呼ぶかで「主人」「ご主人」が問題にされます。「主人」など、文字通りはっきりと上下関係を示して上下関係の最たることばなのに、です。

 「主人」をどうするかは古くて古い問題ですが、2023年9月、『中日新聞」が8000人を対象とした大きな調査をしています。自分の配偶者を呼ぶ「主人」は、80代では4割とかなり残っていますが、30代では「夫」とよぶのが32%で、主人は1割にも満たない数字になっています。ほかの調査でも、自分の夫を呼ぶ「主人」はもう衰退に向かっているので、やれひと安心というところですが、相手の配偶者を呼ぶ「ご主人」がまだ引っかかっています。

 主人とは言いたくないから、自分の夫のことは「夫」と呼んだり、名前で呼んだりする。でも、相手が自分の夫のことを「主人」と言っているのに、「お連れ合い」だの「パ-トナーさん」だのとは言いにくい。仕方なく「ご主人」と言ってしまう、とは、よく聞く弁明です。

 こうした、ためらいには、いろいろな角度からコメントがつけられそうです。

・言いたくないのに、無理して「ご主人」と言うのはやめましょう。言わない人が多くなれば、そのことばも消えていきます。
・言いたくない時は、言わなくてもいいですよ。「(ご主人さまに)いつもお世話になっております」「(ご主人に)どうぞよろしくお伝えください」と、日本語には主語なし表現がたくさんありますから。
・相手が「主人」と言うから「ご主人」でないと言いにくいのでしたら、相手がそのパートナーのことを「夫」と言ったら、すかさず、そのパートナーさんのことを「夫さん」と言いましょうね。
・「ご主人」と言うのがいちばん一般的で、無難だというのでしたら、あなたにとっては無難かもしれませんが、相手カップルのことを上下関係にあると認めることになりますよ、それでも失礼になりませんか。
・「お連れ合い」は古い感じ、「パートナーさん」は長すぎる、「夫さん」は軽すぎる感じなど、言いにくい理由はいくらでもつけられます。でも、ことばはいいとなったら、そちらに動いていくもんです。かつて、「女中」をやめて「お手伝いさん」にしようとなったとき、はじめは「お手伝いさん」なんて長くて言いにくいなど猛反対も起きましたが、今はだれでも「お手伝いさん」です。なれれば言いにくさはなくなります。

 最後にもう一つ。最近の若い夫が「うちの嫁が」と言うのをよく聞きます。これも上下関係の現れで困ります。「嫁」は妻ではありません。「嫁」は息子の親が、息子の配偶者を指すことばです。しかも「嫁」は本来、家のものとしてもらったり行かせたりした存在で、文字通りの「家の女」、家と人という上下関係の下の存在です。「うちは嫁さんが強い」とか「嫁には頭が上がらない」と言うならなおさら、「嫁」の意味とは離れていると知りましょう。

 結婚したカップルの間に上下関係が固定されていることは憲法違反です。いちばん身近なところから憲法を守り、「上下関係が固定されているパートナー関係は、誰とも作らない」ことを肝に銘じたいものです。