以下掲載するのは、岩波書店雑誌『世界』編集部のご厚意によって、WANサイトにて再掲することが可能となった、『世界』2025年12月(1000号)にて公刊された拙論です。再掲にあたって、元の拙論では紙幅の関係で言及できなかった、高市早苗議員に対するわたしの評価について、一言加筆させていただきます。
わたしは現在在外研究中で日本を離れているため、2024年にネットにはりついてリアルタイムで開票の状況を見ていた頃ほどではないものの、今年の自民党総裁選挙にもまた、自民党政治に山積されている諸問題――裏金問題、企業献金問題、統一教会問題、解決どころか真実追求さえしようともしない、モリ・カケ・サクラ問題など――がなかったかのようにメディアがジャックされることへの否定的な感情を抱きながら、それなりにニュースをおっていました。
以下の拙論にも記しているように、わたしは高市議員には日本の首相になってほしくありませんでした。その理由について、拙稿を補足する形でここに記しておきます。
わたしが高市議員を危険な国会議員として注目し始めたきっかけは、戦後50年にあたる1995年、当時の村山富市内閣下で議論されていた「不戦決議」をめぐる国会審議のなかで、当時新進党の一回生議員として「私は(戦争の)当事者とは言えない世代だから、反省なんかしていない、反省をもとめられるいわれもない」と発言したことでした。この発言に対しては、賛否の声が各メディアで伝えられましたが、政治家としての彼女を全国的に一躍有名にした、そして戦後日本社会の右傾化に拍車がかかる象徴ともなった発言のひとつです。
91年の金学順(キム・ハクスン)さんによる日本軍「慰安婦」問題に対する日本政府(と世界)へと向けた告発以来、「慰安婦」問題と自身の戦後責任とをどのように考えたらよいのかについて大学院生ながら悩んでいたわたしは、国会議員のこの無責任発言に、直感的に〈じゃあ、どうして国会議員になろうと思ったの?〉と反応し、かつ、彼女のこの発言の軽薄さが忘れられなくなりました 。
その後、周知のように彼女は、故安倍晋三が立ち上げた「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」のメンバーとなり、戦争犯罪、植民地主義、そして日本軍「慰安婦」制度(=性奴隷制度)に象徴される日本の軍国主義に内在する女性蔑視に、ふたをしようとするだけでなく、事実を歪め、戦争被害にあった近隣諸国への敵愾心を煽ってきた中心人物の一人となります。
10月4日に自民党総裁選挙が行われた後、7日に岩波書店より原稿を依頼され、10月21日に日本初の女性首相、高市早苗が誕生した直後の23日が原稿の締め切りでした。ですから原稿執筆には、首相となってからの高市氏の言動はもちろん反映されていません。とはいえ、国家をやたらと背負い、代表したつもりになりながら、自分の狭い了見のなかでしか政治的事象を捉えない、都合のよい伝統や文化――歴史的な根拠も希薄な――を取り上げて――何度事実レベルの認識の誤りを正されても、しがみつくように――日本を誇りにしつつ、みたくない歴史的事実はなかったことにする。そして、その事実を指摘するひとたちを敵視する政治家としての彼女の特徴は、すでに「反省をもとめられるいわれもない」という若手議員時代の彼女の発言に現れていました。
10月4日の総裁選挙のあと、誇張でもなく、わたしはベッドから起き上がることもできないほど、意気消沈していました。過去に学ばず、過去を反省せず、政治家に最も求められるはずの責任も取りたくない――その時は、国を代表していることを忘れたかのように、「わたし」がやったのではないという――、責任を取れと他者から要求されると、むしろその相手を攻撃する総理の誕生に、〈これで、(戦後民主主義の)日本も終わり〉と思っていました(し、今はますます、その思いが強まっています)。
拙稿を執筆することを決めた後も、高市氏の政治家としての言動のどこから書き起こしていいのか、眠れないほどに悩みました。彼女の言動を批判するだけの文章は、あまりに不毛で書きたくありませんでした。そして、WAN読者の方にいま、お伝えしたいのは、そんな時こそ、わたしたちの声を集めないといけない、もしかしたら〈日本は、終わってしまう〉のかもしれませんが、わたしたちは終わってしまってはならない、というメッセージです。
「フェミニズムは何と闘っているのか――女性初の内閣総理大臣誕生の文脈」(『世界』2025年12月号(創刊1000号)より再掲載)。
はじめに 女性初内閣総理大臣の誕生に接して
10月4日、多くのメディアの予想に反して、高市早苗さんが第29代目にして初の女性自民党総裁に就任した。その後26年の自公連立政権の幕が閉じられ、日本維新の会との新協力体制の樹立など慌ただしい政局の動きがあったが、21日、憲政史上初めての女性首相が誕生した。
高市さんは昨年の自民党総裁選でも最有力候補の一人とされ、実際に第一回投票ではトップであった。一政党内の選挙とはいえ、実質的には日本の首相を選ぶことと等しいため、わたし含め、フェミニストの友人たちも固唾を呑んで開票の様子をネットで見ていたことをよく記憶している。今年については、海外滞在中のために張り付いて開票結果を見ていたわけではないが、高市さんには党総裁、いや正確には日本の首相になってほしくないというのが、わたしと友人たちの率直な気持ちであった。
語弊があるかもしれないが、もっと正直に言うと、わたしは「高市首相では、地獄だ」とさえ思った。それは、次のような危惧の表れだったと思う。彼女のようにならなければ、主流社会に入っていけないというメッセージが与える影響があまりに大きいこと、多くの女性たちがおかれた状況が改善されるどころか、悪化するかもしれないにもかかわらず、これで日本もジェンダー平等に近づいたといった言説が現れるかもしれないこと、そして、日本社会では政治的に微力なフェミニズムへの風当たりがさらに厳しくなるかもしれないこと、なのである。
本小論で考えてみたいのは、わたしや友人たちに「高市首相では、地獄だ」といった暗い見通しを抱かせた背景にあるフェミニズムは、いったい何と闘っているのかである。わたしがこの間研究してきた「ケア」をめぐる議論にも触れつつ、フェミニズムの課題を明らかにすることで、高市首相誕生をなぜこれほど苦しく感じているのか、フェミニストとして自分なりに考えてみたい。
新総裁へと上り詰めたコンテクスト
確かにフェミニストは、主流社会に参加したい(のに、できない)、主流社会から女性たちを排除する法制度上や慣習上の、さらには人々の意識上の障壁を取り除いてくれと訴えてきた。だから、〈フェミニストのくせに、高市氏を右派政治家だと非難するのは、女性をむしろ分断している〉との意見があがるのだろう。しかし、ある領域から女性なら誰でも排除することに対する批判は、男性が支配し続けた特権的な領域に参加できるのが、その特権性を疑わない一部の女性のみであることに対する批判とは地続きのはずだ。両者ともに、支配的な価値観から逸脱することを許されないことに対する批判という意味では同じだからだ。男性中心の社会に賛同する女性を優遇し、異を唱える女性を強く排除、抑圧し、時に社会的な制裁を彼女に科すことは、ミソジニーと呼ばれる。「女性嫌悪/ 蔑視」と訳されることが多かったが、正しくは「女性処罰的」と理解されるべきであろう。
紆余曲折のあと自由民主党議員となり、自ら地盤を築き上げてきた高市さんが、地元である奈良への愛着を示すことで支持を集めようと――鹿をめぐって発言――したり、彼女が尊敬してやまない安倍晋三が会長を務めていた創生「日本」の研修会にて、生活保護制度を利用することに対して「さもしい」と強い言葉でその権利を否定したのは、自らの地位を高めるためにそれが、彼女が身を置いていた状況下(コンテクスト )では最善の行動だと判断したのだろう。「さもしい」発言の後、アベノミクスを掲げた第二次安倍政権が第一の矢を放つよりも早く、生活扶助基準の引き下げに着手したという事実からも(註1) 、いかに彼女が、第二次安倍政権の優先課題に忠実であったかを物語っている。
そもそも、2018年に公布・施行された「政治分野における男女共同参画の推進に関する法律」が、政策の立案及び決定に参画する機会が女性にも確保することを目指したのは、「その立案及び決定において多様な国民の意見が的確に反映されるために一層重要となる」からであったことも忘れてはなるまい。
高市さんのこれまでの言動からは、彼女が身を置く右派的な文脈に彼女が強く拘束されていることが容易にうかがえる。また、与党内で要職についてきた彼女のこれまでの言動が、より広い文脈においていかなる影響力をもつのか、彼女にはその想像力に乏しいと言わざるを得ない。つまり、高市さんが目指してきたのは、彼女が身を置いてきた極めて限定的――ミソジニー的――な状況下で、最善の利益/ 地位を得ることである。そのために根拠のない噂でも利用する彼女の態度は、日本社会全体の未来を展望するには遠く及ばない、オポチュニスト(便宜主義者/ 日和見主義)と呼ぶにふさわしいのではないだろうか。
「すべては文脈次第」にどう抗うか
いや、そもそもわたし自身を含め、多くの女性は、女性処罰的(ミソジニスティク)な社会で生き抜こうと機会(オポチュニティ)を見定め、その場の状況(空気)を読み、わが身を守りつつ生きている。だから、その場その場で臨機応変に立ち回るのは非難されるどころか、むしろ個人の生存戦略として高く評価されるべきという意見もあるだろう。婚姻時に男性の姓となるのも、非正規労働に就くのも、無償の家事・育児・介護などのケア労働をより多く担うのも、高市さんもそうだったように自宅から通える大学に進学するのも、究極的には本人の選択に違いない。だが、社会的地位が低く、権力/発言力が弱い女性たちは、政治・社会・文化状況により拘束されやすい――さもないと、罰せられる――のも事実だ。
一つひとつは、自分で選択しているようにみえて、そのひとの状況により、それぞれに開かれている選択肢はまったく異なる。選択するのは個人でも、選択肢そのものは選べない、つまり選択の自由はとても限定的だ。しかしながら、個人に与えられる選択肢に差があることを許容する社会であればあるほど、自分でも納得しているわけではない状況下の選択の結果は、自己責任とされてしまいがちだ。そして、個人の自由な選択か、それとも既存の社会状況に流されているだけなのかという問いに、選択することに葛藤を抱えるひとほど直面させられる。わたしは、この二者択一こそが、フェミニストたちが抗ってきた「強いられた問い」だと考えている。
わたしが研究してきた「ケアの倫理」は、無償の家庭内労働こそが女性抑圧の元凶だと批判したフェミニストたちに対して、しかしなお、ケアという営みには、男性社会で高く評価されてきたのとは異なる人間観・社会観が宿っており、政治的にも社会的にもその価値はもっと評価されるべきだと主張して、80年代に誕生した。それは、個人の自由な選択をよしとするリベラルな個人主義に対して、「文脈依存的」な判断や自らが置かれた状況に根ざした知識を重視し、他者との関係性を大切にする「倫理」として理解されてきた。しかし、ここで参照したいのは、母親たちが現に担ってきたケアを安易に評価することは、フェミニストたちがそのために闘ってきた目的、つまり、より広い政治的文脈の変革という目標を台無しにすると批判した、合衆国のフェミニスト政治理論家メアリー・ディーツによる1987年の論文だ(註2) 。
歴史的に合衆国では、男性とは異なる特性をもつ女性には、新しい政治を構想する力があると主張する母性主義が強い。そうした母性主義批判としてしばしば言及されてきたこの論文は、1985年公刊のマーガレット・アトウッド著『侍女の物語』の引用から始まる。主人公のオブフレッドが作中、自らに(あるいは、読者に)つぶやく「すべては文脈次第(コンテクスト・イズ・オール)」という言葉がそれである。
女性は生殖装置(「産む機械」!)とみなされ、極限の抑圧をうける神権独裁国家ギレアデ共和国に生きる主人公の「すべては文脈次第」というつぶやきは、政治・社会状況によって、わたしたちの言葉や行動の含意が容易に変化する/ 歪められる――たとえば、妊娠中絶を考えればよい――社会のディストピアぶりを伝えているのだが、ディーツはしかし、それはある真実を捉えてもいるという。つまり、いかなる思考、価値、そして行為であれ、わたしたち自身さえもつくりあげている、より広い政治的社会的文脈によって、その意味や目的が決められているという現実である。だからこそ、ディーツによれば、わたしたちの思考方法、価値観、とりわけジェンダーをめぐる関係性の紡がれ方を吟味し、批判し、そして変革しようとしてきた運動こそが、フェミニズムであった。
したがって、彼女によれば、既存の関係性――それが家族であれ、より広い社会や政治空間であれ――のなかで見いだされた価値を安易に評価することは、わたしたちを取り巻き、わたしたちを形成しているような文脈そのものを批判することにはならない。むしろ母性主義は、オブフレッドが自身に言い聞かせるかのように「すべては文脈次第」と考えたように、文脈そのものの変革、つまり社会変革という目的を手放しかねない反フェミニズム的な現状肯定である。
「すべては文脈次第」であれば、個人の選択にようにみえる行為も、社会状況の帰結でしかない。そうであれば、社会変革をめざすフェミニストの運動もまた、現状を肯定することになるのか。わたしは、この問いにいかに対峙するかが、多様なフェミニズム理論の分岐点だと考えている。したがって高市さんのように、戦後の日本経済の台頭を支えた「内助」をあてにする社会モデル(註3)に固執するどころか、強化しようとさえすることは、反フェミニズム的である。
では、この政治状況を地獄だと嘆いているだけでよいのか?
初の女性自民党総裁誕生直後、日本政治学会(会員数約1900人、女性会員率約14%)で、三浦まりさんが初の(次期)女性理事長に選ばれた。日本政治学会の女性会員の比率は、現在の衆議院議員に占める女性比率と同程度に低い。
先述したディーツは、こうも論じている。「文脈がすべて(コンテクスト・イズ・オール)」というなら、その「すべて」をみてみようとするのがフェミニストだ、と。ある集団において初めて代表に就くひとは、初めてその全体をみる、と同時に、全体のために細部の様子をみる、なにより、彼女とは異なる状況にある者たちからの声を耳にする機会に恵まれる。異なる集団の代表ともつながり、その集団が置かれた状況も知ることとなろう。他方で、ひとの現実をみる力や想像力はとても弱く、どんな優れたひとであっても、その視野は限られている。どれほど強圧的な全体主義国家の支配者であれ、その全体を細部にわたって知ることはできない。どれだけ遠くに走っても、地平線は遠ざかり追いつけないように、誰にも「すべて」は把握できない。
誰であれ、自身が置かれた文脈の全体を知ることも、その外にでることも不可能に近い。だが、一人ひとりの異なる文脈から培われた価値観や考え方に触れることで、ひとは、自分が今まで置かれていた状況のなかで身につけた考え方を変化させ、状況そのものをも変えていく。わたしが三浦新理事長に期待するのは、三浦さんには、他者の文脈に触れ、新たな知へと政治学会を導いてくれる力があると信じているからだ。
ディーツに批判された「文脈依存的」な思考には、誰一人同じ立場におらず、だからこそ、一人ひとりがその状況において身につけた知はなるべく多く社会に提示されることが社会不正義の是正につながるという含意があった。フェミニストたちはそれを、「状況づけられた知(シチュエイティド・ナレッジ)」と呼び、異なる文脈におかれた一人ひとりが、その知をもって社会において声を上げることの大切さを訴えた。
小さく非力であるからこそ
これまでの言動から、新首相がジェンダー平等社会に向けた政策を積極的にとることを期待するのは難しい。しかし、だからこそ、フェミニストが紡いできた(一人ひとり異なる)「状況づけられた知(シチュエイティッド・ナレッジ)」を、新首相には伝える責任がフェミニストにはあると考えている。いや、その責任はわたしたち市民一人ひとりにある、というのがフェミニズムのメッセージだ。世界的にも注目される女性初の首相誕生によって、わたしたち市民の力がより一層試されている。
翻って、諸個人が捉える文脈の違いに敏感になることは、日本社会「全体」をよりよく把握し、その現実にそって政策を立案するという政治の責任である。その責任は、自発的な結社である学会とは比べようがないほどに、重い。その意味で、日本社会の構成員に他ならない少数者を切り捨てたり、異なる――たとえば沖縄県民の――経験や歴史を無視することは、一握りのひとにのみ通用する価値観をすべてに押しつけ、命さえ奪うことになりかねない。
80年代の合衆国で、ディーツは「リベラルな資本主義」という文脈をいかに変革していくかを、悲観的になりそうになりながらも模索した。小さく非力であるにもかかわらず、いや、だからこそ、デモや対話のために集まる人びとこそが、その変革の「主要な動力」となるだろうし、フェミニストはその一つであると。フェミニストとして、わたしもまた、新首相に声を届ける(という困難な)努力を諦めない。
(註1)
大沢真理『生活保障システムの転換――〈逆機能〉を超える』(岩波書店、2025年)、169頁。なお、2012年12月に発足した第二次安倍政権では、2013年1月末には生活扶助基準の引き下げ方針を決定し、同年8月1日には切り下げを断行した。この生活扶助基準の見直しについては、受給者や支援者から違法・違憲として提訴され、2025年6月に最高裁判決により、判断と手続き上の誤りがあったとして生活保護法違反と判断された。
(註2)
公刊後母性主義批判の文脈で参照されることの多いディーツの論文は、実際には母性主義の政治的意義にも注目している。たとえば、権利中心的な個人を前提に、平等なアクセスを社会正義と捉えることの限界を指摘したことと、権力闘争にあけくれる汚い世界だという政治観に対して、相互に依存する個人としてわたしたちは、関係性や共有されるコミュニティを大切にする政治を構想できる可能性を示した点で、母性主義を評価している。Dietz, Mary G. 1987. “Context is All: Feminism and Theories of Citizenship” Daedalus, Vol. 116, No. 4 (Fall), p.12.
(註3)
大沢真理によれば、日本社会がいまだ「男性稼ぎ主」モデルで設計されており、その生活保障システムが想定するのは、「稼ぎ主である男性が、自分自身の健康やメンタルのケアも、妻の「内助」に依拠していることである」(大沢前掲書、8頁)。
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