つい、最近の新聞です。

「浅尾慶一郎環境相は26日、東京電力福島第一原発事故後の除染で出た土(除染土)のうち放射性物質の濃度が1キロあたり8千ベクレル以下の土の呼称について、「復興再生土」とすることに決めたと発表した。」(朝日新聞2025/9/27)

と出ていました。「除染土」あらため「復興再生土」ですって? また、ことばのまやかしですか? そう勝手に変なことばを作らないでくださいよ、とつい言いたくなります。たしか、10日ほど前の新聞で「除汚土」が東京・霞が関に運ばれたという記事が出ていたはずです。探してみるとありました。9月15日の新聞です。

「環境省は14日、東京電力福島第一原発事故後に福島県内の除染をして出た土(除染土)約28立方メートルを東京・霞が関の経済産業省の花壇に入れた。除染土の再生利用に対する国民の理解を広げるのが目的で、中央省庁計9カ所で花壇や盛り土に使う予定だ。」(朝日新聞2025/9/15)

 福島だけに除染土の保管を押し付けるのは悪いから、全国にその土を運び出して負担を分け合うという話は前から聞いていました。その手始めにまず東京のど真ん中の霞が関の、しかも経産省の敷地に持って来たというわけです。もう大丈夫ですよ、この土はもう放射能はほとんどないから大丈夫ですよ、というアピール作戦を開始したのでしょう。

 そのアピール作戦と前後して、この話題の主人公である土の呼び方を変えるというのが、なんともせこい話です。「除染土を官庁の花壇に運んで再利用する」でかまわないのに、今後は「復興再生土を大蔵省の植え込みに運び込んだ」と言わなければならなくなるのです。

 環境省があえて名前を変えた意図は見え見えです。「除染土」ということばを耳にし、口にすると、日常の雑事にかまけて福島のことを忘れていた人たちも、どうしても福島第一原発はどうなっているか気になります。廃炉はちゃんと進んでいるの? まだ帰還出来ない地域があるの? 戻った人たちは以前のような暮らしができてるの? 避難したまま戻らないと決めた人たちはその後どうなってるの?……あれだけの大惨事に見舞われた福島のことですから、気にならないほうがおかしいでしょう。

 でも、そのことをいつまでも覚えていてほしくない人がいます。脱原発から原発依存に大きく舵を切った人たちです。原発の事故のことは早く忘れてほしいのです。福島はすっかり復興して、皆さんハッピーに暮らしているのだと思ってもらいたいのです。「除染土」ということばから、大地が汚染されて人が住めなくなるということがあった、汚染された土を削らなければ住めなかった、そうして削られた土が除染土だったと、思い返されては困るのです。

 そういう見え見えの改称ですから、新しい呼称は使いたくないと思います。改称のいきさつが不純だからだけではありません。この新しい名称がまったく意味不明なことばだからです。

 「復興再生土」ってどういう土ですか。この5文字を文字どおり読んでみます。「復興して再生した土」とも、「復興地にある再生土」とも、「復興するために再生した土」とも、「復興するために今後再生する土」とも読めます。こんなに意味があいまいでは、どんな土のことを言っているのか、その実体がさっぱりわかりません。しかも除染土はそのどれでもありません。除染土とは、そもそも「汚染されて住めなくなった土地の、汚染をとり除くために削り取った土」であって、再生した土ではありません。

 ことばを変えて世の中の批判を反らした例は2年前にもありました。

 東京電力福島第一原発の冷却用に使った「汚染水」が敷地内に一杯になって、海に放出せざるを得なくなったときです。汚染された水の放出には、脱原発を主張する人たちはもちろんのこと、漁業関係者や、中国・韓国など近隣諸国から強い反対の声が上がりました。そのとき政府はこの水の名称を「汚染水」から「処理水」に変えました。

 「汚染水」という名称は、そのものずばり「汚染された水」です。事実そのものを表しているから、放出したい人にはまずいことばです。「処理水」というと、処理したことは事実ですが、処理されて汚染濃度が低くなったということではありません。汚染の濃度は変わらないのに、「汚染が処理された水」と理解して、なんだか安全になったように錯覚します。この錯覚をうまく利用した改称でした。

 実態を表し、本質を突いていることばが、為政者によって変えられたり、避けられたりすることがしばしばあります。戦争に負けた後、「敗戦」を「終戦」と、「占領軍」を「進駐軍」と呼ぶように仕向けられたのは、有名な事実です。

 為政者や権力者がことばを変えるときは、痴呆症を認知症に変えるというようなよい場合もありますが、裏に何かよくないことが隠されていることも多いのです。素直で従順な私たちはつい、だまされて乗ってしまいますが、用心用心です。せめて、すぐその新しいことばに乗らない疑い深さは身につけたいものです。