今月より「陽の当たらなかった女性作曲家たち」第5シリーズを始めます。一年ほど前に終わったNHK朝ドラ「虎に翼」で、女性が歩んできた道に認知が広がったことは、コンサート会場でトークに聞き入る女性客の視線からもうかがい知れました。男性中心主義の社会構造の問題(脚本家・吉田恵里香氏)は日本はもとより、未だ世界で脈々と続いています。ドラマへの理解に助けられながら新連載もよろしくお願いします。

 シリーズ第1回は、フランスの名ハープ奏者で作曲家だったアンリエット・ルニエ(Henriette Renié )をお送りします。1875年に生まれ、1956年に亡くなりました。過去のエッセイでは、同じくパリ音楽院で作曲を学んだ1858年生まれのメル・ボニスは(エッセイ https://x.gd/1Ox7z)、世間の偏見を避けるため中世的な名前「メル」に変えて活動しました。加えて同世代、パリ生まれのセシル・シャミナードは、富裕層の父親の反対で音楽院では学べませんでした(エッセイ、https://x.gd/fa1KK)。

 ルニエは、5歳で祖母の手ほどきでピアノを始めます。父親は若い時分、画家のT・ルソーの弟子で、なにかと芸術に親しみのある環境でした。ルニエは父親が出演したニースのコンサートで当代随一のハーピスト、アルフォンス・アッセルマン(Alphonse Hasselmans)を聞いた途端、突如として閃きが湧き、それ以来ハープの音色に心を奪われます。この先生に習いたいとアッセルマンの門をたたき、8歳で弟子入りを許されました。まだ身体が小さくペダルに足が届かなかったため、父親特 製の補強ペダルを使って練習しました。

 1885年、10歳でパリ音楽院に入学します。ハープ専攻のほか、後年は作曲も学び、マスネも指導者の一人でした。「タイスの瞑想曲」が有名な作曲家です。彼女の演奏は聴衆を魅了し、コンクールでは他を寄せ付けない圧倒的な芸術性でトップの実力でした。しかしながら当時の学長がルニエに1位を渡すともう学校に居られない、1位を取ればプロとして扱われるから女の子の生きる道に相応しくないという考えのもと、取りやめになりました。

 この間にも演奏はめきめきと上達を見せ、ベルギー女王、ブラジル大統領などに御前演奏を続け、評判が評判を呼び、方々から演奏のオファーが舞い込みましたが、ギャラを受け取ってはならないと言う父親の厳命のもと、個人的なボランティアコンサートだけを引き受けました。その後15歳で、とうとう父親の許しが出て公のデビューを果たしました。

 一方、先生業は9歳で始め、12歳以降はパリ中からルニエのレッスン希望者が殺到し、多くの生徒は彼女の倍以上の年齢でした。パリ音楽院がハープ専攻の学生たちのリハーサルに彼女を招き、次第に彼女の姿が界隈で知られることとなり、一層の認知が広まりました。

 自宅にレッスンスタジオを開設し、独奏もアンサンブルのレッスンも指導しました。本心では小さなアンサンブルグループを息長く育てたい希望がありました。彼女自身の作品や他の作曲家のハープ用編曲を演奏することで、ハープのテクニックや芸術性をしっかり伝えたいという思いを持っていたのです。

 13歳で卒業を迎えましたが、和声と作曲を引き続き学びました。パリ音楽院は通常14歳以下の生徒はこれらの授業を履修できませんでしたので、特例の扱いでした。 16歳で和声で1位、21歳でフーガと対位法で1位を獲得し、作曲の教授たちにもっと作品を書くよう勧められましたが、本人は乗り気ではなく、でも実は隠れてアンダンテ・リリジオーソ(Andante Religioso)を書いていました。注目を浴びることに辟易していたそうです。一方でレニエの作品は、ピエルネ、ドビュッシー、ラベル等、同世代で世界的な知名度を得る男性作曲家たちがハープ作品を書く上で大きな影響を与えました。

        ルニエと弟子

 15歳のデビューコンサートでは、プログラムに師匠アッセルマンの名前が抜けており、両親が即座に詫びを入れプログラムを刷り直すも、師匠は長いこと頑ななままでした。生徒を送ってよこしても、両家の子女で趣味のハープの生徒ばかり。ルニエが本来教えたい真剣な生徒は紹介されませんでした。ハープ演奏は腕や肩を出したドレスで優雅さを醸し出し、あくまで良家の子女の花嫁修業としての扱いが主流だったので、その手の生徒は数多く来ました。

 その後も、師匠アッセルマンと緊張関係が続きました。師匠はルニエの実力が上がるばかりに、自分を脅かすライバルと捉えるようになり、でも1912年に健康上の理由でパリ音楽院を辞する際は、後任にルニエを推し、これをもって実質的な和解となりました。ただ、せっかくの師匠の推薦、そして音楽院初の女性教授就任のチャンスでしたが、ルニエは敬虔なカソリック信者だったため、当時のパリ音楽院の体制と齟齬が生じ、本人も固辞を続けたので、音楽院は別な男性指導者を選びました。

 初の作品は、1900年もしくは1901年作曲の「ハープのための協奏曲」。「伝説、Legend、1901年作」、「ハープのためのピースシンフォニー三部作、1907年」、「ハープのための6つの作品、1910年作」等、作品は多数残されています。その他にドビュッシーのピアノ連弾の名作から「小舟にて」等、編曲作品も数多く残しました。

 1926年から継続的に演奏の録音を開始し、どのアルバムも話題をさらい、すぐに完売しました。子ども時代からハープの世界のみに身を置き、特に友達もいなく、兄弟と親密だったからか、それが特別寂しくもなく、避暑地でアッセルマンの娘と遊んだり兄の友人と交友はあれど、そして結婚も申し込まれましたが、音楽が絶えず中心にあり、また宗教的にもストイックに生きました。

 パリのエッフェル塔がラジオ放送を始めた1908年以降から出演し、演奏しました。イタリアの名指揮者トスカニーニからハープ奏者として契約するように申し出を受けても、母親の健康を理由に断り、また、フランスのもうひとつの名門、エコール・ノルマル音楽院の教授職も断りました。そんな中でも彼女の名を冠したハープコンクールを自ら始め、ラヴェル等、著名な音楽家が審査員に連なったのです。

 その他の主だった活動は、ハープのテクニックのための教則本の出版、またハープという楽器の発展に大きく貢献したことが挙げられます。弟子たちは世界中に散らばり、例えばM・グランジャーニーは(1891-1975)、ニューヨークを拠点に、ジュリアード音楽院やカナダのモントリオール音楽院の主任教授を歴任、全米ハープ協会設立に尽力しました。その後、ジュリアードのポストを引き継いだのはS・マクドナルドで、やはりルニエの弟子でした。日本を代表する奏者の吉野直子さんは、アメリカで彼女の指導の下ハープを始めました。このようにルニエの教育は世界中の次世代に脈々と受け継がれています。

        ルニエの墓


 ルニエは病気がちな中でも家族の経済的援助を続け、1956年、自作のコンサートを終えた数か月後、81歳で亡くなりました。この時代には稀な、腕一本で家族の経済的サポートすら担った自立した女性でした。

 本日の演奏は「6つの作品」から2曲。ピアノで演奏可能な作品を選びました。1番「Conte De Noel、クリスマスの物語」、5番「Reverie、夢想」をお聞きいただきます。


参考文献
hcommons.org/?get_group_doc=1003852/1623174466-HenrietteReniLgende.pdf
henriette_renie.pdf
アンリエット・ルニエ - Wikipedia
Henriette Renié - Wikipedia
ハープとバイオリン(もしくはチェロ)による作品
Andante Religioso for harp and violin by Henriette Renié
吉野直子さんによるルニエ作品の演奏 Renié: Contemplation: Andante religioso