「この本を書くのは出版社と読者を満足させるためで、わたし自身が満足するためではありません」 『モンゴメリ書簡集Ⅰ』より
この本とは赤毛のアンシリーズの3冊目『アン』ブックスのことです。作者L・Mモンゴメリは、さらに「これに取り掛かるのはとても気が重いのです。『アン』の世界に戻るのは、とても難しい気がします」と文通相手のジョージ・ボイド・マクミランに宛てた手紙で正直に語っています。今回は『アン』シリーズの紹介や作品論は他に譲るとして、「書簡集」や「日記」及び「自叙伝」などから、モンゴメリの作家としての想いに焦点を当てたいと思います。
当時の20世紀初頭は、印刷業が盛んになり、出版界も活気を帯び、物書きという職業も世間的に認められ、印税で生活が潤う作家も輩出していました。
世界的ベストセラーとなった『赤毛のアン』を書いたとき、モンゴメリは34歳になっていましたが、彼女は20代後半より教員生活のなかでも原稿を書き続けていました。プリンスエドワード島の名門の出であるにも関わらず、祖父母に育てられたモンゴメリの生活は質素なものでした。「わたしが文学にのめり込んでいるのは生計を立てるためなのです。散文は売れるので書いているのです」と、彼女はマクミランへの初期の手紙で書く動機を語っています。
それでも、27歳の日記に「『金目当て』に書いた作品は大嫌い。でもほんとうにいいものを書くときはとても楽しい。芸術の化身―詩の女神を、わたしは尊敬する」と綴っています。ここには純粋な創作への憧れが表出され、微笑ましくさえ感じられます。
これより以前、22歳のモンゴメリは、プリンスエドワード島の小村で教員生活を送っていたましたが、すべて申し分ない男性Aと婚約をしていました。ところが晴天の霹靂、粗野で無教養な農夫と「命をかけた恋」に落ちてしまいます。モンゴメリは自身の日記『愛、その光と影』で恋人ハーマンへのときめく思い、身も心も虜になっていく様を赤裸々に記しています。
しかし、モンゴメリは祖父が亡くなった後、1人残された祖母を養うため、教員を辞して郷里の村に戻らなければなりませんでした。彼女はAとの婚約を破棄し、一方ハーマンとも別れます。いくら愛していてもモンゴメリはハーマンとの結婚は不釣り合いと思い、冷めた目で見ていました。
そしてハーマンが思いがけなく病死した後は、郷里の牧師ユーアン・マクドナルドと婚約をしますが、世間には5年間も伏せていました。
祖母が亡くなると、モンゴメリは住んでいた家を失い、37歳でユーアンと結婚します。彼女は二人の男の子を授かり、牧師の妻として、母として、作家としての多忙な生活を送りますが、実はその頃から夫ユーアンは精神に支障をきたしていました。
彼女は『アン』の出版以来、<大>雑誌の編集者たちからも、たくさんの作品依頼を受け取っていますが、「彼らの多くは、何カ月もの間、わたしの作品をつっぱねていたのに、です」と恨みつらみもマクミランに吐露していました。
アンシリーズの執筆についてさらに、モンゴメリは「この作品が面白くてたまらないと思ったことは一度もありません。全然書きたくなかったのです。女性たちときたら、その後、アンとギルバートに何が起こったのか、どうしても知りたいといってきかないのです」と辛らつな表現もみられます。作者の「書きたくなかった気持ち」は作品にも正直に表れていたように思えます。
『アン』シリーズが、8作目まで続いたことは驚きですが、その大半は周囲の人々の微笑ましいエピソードが満載で、私には退屈でした。モンゴメリの創作の源泉は大叔母のメアリー・ローソンから聞いた先祖の話と言われています。それに加えてモンゴメリが見聞きした噂話や村人たちの平凡な暮らしぶり、あるいは刺激に乏しい村社会の出来事などをないまぜにして丹念に描かれています。私としては、結婚したアンとギルバートの気持ちのすれ違いや、更年期のアンに焦点を当て丁寧に描いてくれたら、当時の男性優位の社会でジェンダー規範に縛られた女性の姿が浮き彫りになったのにと、歯がゆく思えるのです。
この頃第一次世界大戦の戦況に一喜一憂していたモンゴメリにとって、「女生徒たちのために女性徒たちのささいなふるまいについて書くなんて」ほとんど不可能と迄言い切っていました。それでもモンゴメリは新作に挑み、戦時下で健気に生きる少女リラを主人公にした『アンの娘リラ』を出版しています。この作品はアンがリラとして息を吹き返したかのように、モンゴメリは力を込めて描いています。
ただ、モンゴメリの作家人生も順風満帆というわけにはいきませんでした。1919年46歳のときペイジ社を相手取り訴訟を起こしたのです。
「ペイジ社を相手どった訴訟が、とうとう審理されることになったのです。そこに立ち至るまで、3年もの間だらだらと長引かされて、その間ペイジ社はわたしに一文の印税も支払いませんでした。とにかく、わたしはこの訴訟に勝ち、社としては、わたしからまきあげようとしていたお金を全て支払わねばなりませんでした。・・・ペイジに騙されているにもかかわらず臆病なのとお金がないために法廷で争うことのできない多くの作家たちのためにも。」
モンゴメリはおそらく自分がこの訴訟に負ければ、女性作家たちは見くびられ、不利な条件で出版契約され、印税の支払いも滞りかねないと危惧していたのかもしれません。以後彼女はおよそ10年近くかけて女性作家の地位向上や待遇改善を要求して敢然と出版社と闘ったのでした。それこそが彼女の女性の権利獲得運動だったのです。彼女はこの訴訟がよほど腹に据えかねたのか、10年後の1929年にもマクミランに事の仔細を綴り、このように憤慨しています。「ペイジの経歴には女流作家の扱いになると、そういうことがいっぱいあるのです。・・・たいていの女性は何事にせよ法に訴えるよりは自ら屈してしまうものだと心得ていたのです。」
折しも1917年カナダの一部に女性参政権が認められ、女性の権利獲得運動は盛んになっていました。モンゴメリは保守的とみられていましたが、「選挙における婦人の役割」と題して遊説に出かけたこともあります。にもかかわらず、牧師の妻としてはそれが限界だったようです。社会的な活動には積極的に参加していませんし、女性の権利に関して取材されるとあいまいな返事で言葉を濁しています。
牧師の夫ユーアンは病状が悪化したため辞職し、夫妻は、カナダオンタリオ州トロントの<旅路の果て>と名付けた家に移り住みます。その間もモンゴメリは「執筆を請い続ける出版社」を満足させるために、『アンシリーズ』の2冊を出版しています。彼女はベストセラー作家として、読者と出版社の期待に応え続け、失いがちな創作意欲を掻き立てて、執筆を続けました。それはおそらく夫の収入がない家庭を支えるためでもあったでしょう。
しかし、64歳のモンゴメリはとうとうマクミランに打ち明けました。
「あなたとの文通の全期間を通して、わたしは概して陽気な手紙を書いてきたと思います。・・・私の生活は気苦労と緊張と不安の連続でした」
続いて晩年のモンゴメリは1941年9月15日付の手紙でマクミランに告白しています。
「あなたは、もう何年もの間わたしの生活に降りかかってきた数々の精神的な打撃をご存知ではありません。わたしはそういうことは友人たちにも知らせないようにしていました。わたしの精神がどんどん弱っていくのを感じています」
1941年12月23日付け最後の手紙では、
「この1年間は絶え間のない打撃の連続でした。長男は生活をめちゃくちゃにし、その上妻は彼の元を去りました。夫の神経の状態は、わたしよりももっとひどいのです。わたしは夫の発作がどういうものか二十年以上もあなたに知らせないできました。でも、とうとうわたしは押しつぶされてしまいました。もうすぐ次男は兵隊にとられるでしょう。ですから、わたしは元気になろうという努力をいっさいあきらめました。生きる目的が全くなくなるのですから。
かつてのわたしを覚えていて下さい。そして、今のわたしは忘れてください。おそらくこの手紙が最後の物となるでしょう」
結婚以来夫は精神的に不安定で、彼女もしばしば神経衰弱に陥り、健康状態もよくなかったうえ、母としては長男の子育てにも挫折しました。しかもその苦しみを誰にも漏らさず、約40年間も続いたマクミランとの膨大な書簡の中でも最後まで、真の姿は見せませんでした。
モンゴメリは文壇では著名な作家としての体裁を繕い、社会的には牧師の妻として、またあの時代が要求した理想の母としてふるまい、世間を欺いてきたのでした。それは当時女性に期待された役割を懸命に果たそうとした悲劇だったのかもしれません。
あの『赤毛のアン』の作者の晩年がかくも悲しい結末を迎えようとはだれが思ったでしょう。結局、モンゴメリは読者にも、世間にも、文通相手にも偽り、欺き続けたのでした。図らずも、モンゴメリはその自叙伝に『険しい道』と名付けています。
*拙著『少女小説をジェンダーから読み返す~若草物語、秘密の花園、赤毛のアンが伝えたかったこと~』(亜紀書房刊)にオルコット、バーネット、モンゴメリ、3人の作家の詳しい評伝が載っています。ぜひご一読ください。
★ルーシー・モード・モンゴメリ(1874-1924)
参考『モンゴメリ書簡集G.Bマクミランへの手紙Ⅰ 』F.W.P.ボールジャー E.R.エバりー編
宮武潤三 順子共訳 篠崎書林
『愛、その光と影』モンゴメリ日記❸ メアリー・ルビオ/エリザベス・ウォーターストーン編集
桂 宥子訳 立風書房
『険しい道』モンゴメリ自叙伝 山口昌子訳 篠崎書林