F先生

 先日は、私の話を聴いて相談にのって下さり、ありがとうございました。
 私の勤める職場は圧倒的な男社会で、教員の女性比率はやっと2割。研究分野も世代も異なれば、子どもの有無などライフスタイルも様々で。悩み相談をし合うのも難しいのに、ましてや大学執行部業務に従事経験がある女性教授など、身近にはいない。先生のような、執行部経験をもつ男性であるにもかかわらず、暗闇を手探りで進む女性の、悩みを聴き、助言を下さる方がどんなに貴重なことか。
 帰宅する際にオフィス街を通ると、かなり夜遅くなのにまだ明かりの点いた窓もいくつかあって。私は私と同じように職場で孤立している管理職女性の姿を、その窓の奥に想像してしまいます。そして思うんです、どうか彼女たちにも先生のような方がいますように。

 いくつものガラスの天井を破るたびに、傷ついてきました。上位職への道が女性に開かれるべきだと私は思い、そして実際に開かれたのだから挑戦しなければと思い…でも正直、あまりにも血が止まらなくて死にそうだ、逃げてしまいたいと思うときもあります。先生の励ましがなければ今日までやれませんでしたし、おそらくこのたびの高市早苗首相誕生を喜ぶ女性たちには、高市首相がその座につくまでに、いったいいくつのガラスの天井を破り、どれだけ血を流してきたのだろうと、自らの傷の痛みを重ね合わせる女性たちが少なくないと思います。
 私が大学に入り、高市首相が社会人になった頃は、バブル経済と男女雇用機会均等法成立の時代。この頃に20代だった女性たちは、「『女の時代』の到来」と煽られて、お立ち台に上り、そこから降りたくないと思ってしまった。いくつものガラスの天井は、あの頃のディスコの照明のようにキラキラと輝いている。だから逃げたくない、逃げたいと思ってしまいたくないんです。でも傷が痛くて…
 昨今の「女性活躍推進」施策の下で管理職に登用される女性たちは、まさにこの世代です。逃げたいと思ってしまいたくないから、管理職も引き受けガラスの天井に挑み続けるけれど、痛いものは痛い。日本初の女性首相誕生は、痛みに耐えた先にあるものが、遂にこれほどまでの高みに至ったのだと、ガラスの天井に挑む女性たちの心の支えとなっているのではないでしょうか。

 以上のようなことを、高市首相誕生に際して、私の女性保守研究に注目してくれた朝日新聞のインタビュー記事で、私は論じたのですけど、その記事はお読みいただけましたか。私は記事の中で、「高市さんをはじめとする女性保守の台頭は女性の高学歴化、キャリア女性の増加などのフェミニズムの成果と、保守政党の女性登用戦略に女性自身が主体的に乗ることで生み出されたと見ています。その意味で、高市さんはフェミニズムと保守のハイブリッドといえる」と述べました。自分で言うのも何ですが、鋭い指摘だとお褒めいただくことが多いです。というのも、これほど「女性活躍」が進んでいない日本で、「必ずしもジェンダー平等政策に前向きではない女性首相」が誕生したことをどう考えたら良いのか、皆さん考えあぐねているからです。高市首相の一挙手一投足にも、過労死を容認しかねない発言だとか、男性に媚びているとか、批判と擁護がともに噴出しています。
 私が大学執行部の一員としてやろうとしていることはジェンダー平等推進ですが、でも私の「ふるまい」自体は、どれほど高市首相のそれと違うのかとも思います。男社会の中で、少しでも「理解のある男性」をみつけては、どうしたら「理解のない男性」も動かして、己の成したいことを成せるのか、助言や助力をもらいつつ歩を進める。でも「理解のある男性」なんて、本当はいない。
 いるのは、少ないながらも「自分が理解していないことを自覚している男性」です、先生のような。口癖のように「私は海妻さんの言うことを、十分わかっていないのだと思うけど」と仰りながら、誠心誠意の助言や助力を下さる。私は心から先生に感謝しているのですけど、その「男性に感謝」する姿勢が、媚びだと、私を批判する女性の同僚もいて。意外ですか?

 男社会の作法や論理についての助言を一生懸命受けて、連日遅くまで会議資料を作り、事前説明に走り回る私は、彼女からみれば男社会の追従者です。彼女は、教授になるのも執行部に入るのも、まっぴらだし、私がそれらの女性比率を増やそうとするのは、余計なことだと言います。
 彼女にそう言われて思い出すのは、私も尊敬する加納実紀代さんというフェミニストの「総撤退論」という主張をめぐる論争です。いわゆる「女性の社会進出」が、男性中心的な資本主義に都合の良い労働力供給でしかないのか、それとも社会を変え得ることで推進すべきなのかという論争でしたが、私の女性同僚の教授昇任や執行部入りに対する拒否は、ある種の「総撤退論」なのだと思います。
 私自身は、「総撤退」しても何も変わらない、意思決定過程に入り込み社会を変えなければ、という考えです。でも彼女の気持ちは痛いほどわかります。漸進主義というものは、どのようなイデオロギーに立脚したものであろうと、媚びでしかないのかもしれません。

  でもどうか、心配しないでください。先生は私が、漸進主義的媚びをし続けることに嫌気がさして、革命主義的潔癖へと走る、つまり現在得ている役職や地位を自ら辞すのではないかと、以前からヒヤヒヤされていますよね。会議で私の提案が「理解のない男性」たちにけんもほろろにけなされているとき、部屋の上席に座る先生と遠くから目が合うと、その目がそういう心配に満ちているのを、いつも感じていました。
 彼女から見れば追従者である私も、多くの男性から見れば経験不足で組織の動かし方を知らず、横紙破りや気に障る発言ばかりする女性リーダーのひとりです。私の世代は、2003年の「202030」閣議決定の時に既に30代半ば。2015年の女性活躍推進法成立の時には50歳前後になっていました。リーダー候補としての養成をされるどころか、いかに育児や介護を抱えても仕事を辞めないでいられるかで精一杯だった。マミー・トラックにはまりたくないと、シングルを選んだ同世代もたくさん見てきました。
 組織の動かし方、特に突発事態への対応にはハビトゥスの側面があり、経験を積ませてもらえてこなかったことのリカバリは、簡単ではありません。高市首相が「つきあいが悪く人望がない」だの、公明党連立離脱への対応や台湾有事に関する発言など、したたかさや経験の不足をそしられていますが、他人事ではありません。「高市おろし」をしたがる男性たちと同じくらい多く、私を辞めさせたがる男性はいくらでもいますが、登用しようとする男性は先生くらいです。ですから私も、自らは辞めません。

 残念ながら私あるいは高市首相の世代の女性は、男性に「登用してもらう」側面抜きには、役職や地位を得られない。たかだか2割の女性の意見に、職場の女性登用策が左右されることはないし、それは総裁選でも同じです。高市首相が麻生太郎の操り人形と揶揄されるように、他人の目に私は、先生の子分か何かのように見えているのでしょうか。
 実際には、先生は子分をつくらない方ですし、私を登用したところで、先生には何の得もないのですが。それなのになぜ先生は、私を登用したのか、ずっと考えていました。気づいたのは、先生ご自身がある種の「男社会へのなじめなさ」を、お持ちだということです。
 先生は理想家で、いわゆる「ロッカールームの会話」に入り込めずに他の男たちをシラけさせてしまうような、生真面目な方ですよね。先生は物事を「男同士のあうんの呼吸」で進めることに、男性でありながら違和感や困難を感じて来られていて。だから私にある種の親近感もお持ちになり、ご自身の経験から有益な助言をして下さるのではないですか。 でも、もし先生が麻生太郎のように、「女性にガラスの天井を破らせてあげたい」という人々の気持ちを利用して、子分の女性を擁立して来る男性だったとしても、私には拒否ができません。だってここでガラスの天井を破らなかったら、これまでのガラスの天井を破って流してきた血は、どこにいってしまうんですか?私は、先生が麻生太郎のようではなく、したがって心を虚ろにして作り笑いをする必要はなく、本気で女性人材を育成しようと思っていらっしゃる先生に、心から感謝できることを幸せに思っています。でもそれはまさに幸運なのであり、どんなに多くの女性たちが、媚びという痛みに耐えながら、ガラスの天井を破り続けているのだろう、と思うんです。

 こんなふうにあまりにもたやすく、ガラスの天井を破り続けようとしていくうちに、私たちは高市早苗になっていく。私は、高市首相誕生を喜ぶ女性たちを、思慮が足りないとは思いません。なぜなら私が、高市早苗と違い続けていられているのならば、それは幸運にも「自分が理解していないことを自覚している男性」の力だけを借りて、男社会で生き残れたからだと思うのです。
「女性にガラスの天井を破らせてあげたい」という人々の気持ちを利用して、子分の女性を擁立して来る男性が、保守の世界にこれほど増えたのに、リベラルの世界に「自分が理解していないことを自覚している男性」がなぜ増えていかないのかを、問うべきだと私は思っています。私が、男性性研究や男性運動論がフェミニズムにおいて重要だと考える理由も、ここにあるのです。

 私は、フェミニストとして生きるということは、もっぱら「女と/女へ」語っていくことだと思っていました。もちろん、そういうシスターフッドに満ちた語りは不可欠なもので、この語りを男社会の中でも可能にするためにも、様々な女性比率を増加させないといけないのですが。しかし寂しいことに、その増加のための苦闘経験を具体的に分かち合える女性同僚が、男社会で生きていると、あまりにも少ないのです。こんなにも、本当のところでは理解などしてもらえないだろうという、一抹の虚しさを抱えつつ、「男と/男へ」語っていくことになるとは。
 もっぱら「男と/男へ」語っていく中で、いつしかその虚しさを感じなくなった時、私の顔は女性保守のそれと変わらぬものになっていくのでしょう。ですので申し訳ありませんが、もうしばらくだけ私が先生のお部屋に、助言を仰ぎに来ては「虚しい、虚しい」と言い立てるのを、辛抱して聴いていては下さらないでしょうか。先生は「自分が理解していないことを自覚している男性」なので、「私は海妻さんの言うことを、十分わかっていないのだと思うけど」と口癖のように仰り、そして実際、本当のところでは理解されてはいらっしゃいません。ただ先生の、理解しようと努めて下さる姿勢は、真摯なものだと感じています。ですが結局これも、「媚び」なのでしょうか。

WAN編集局付記: WANでは特集企画「<高市的なるもの>と私たち」として、高市首相の誕生を多角的に論じる論考を集めることにした。関連エッセイを適宜掲載していきたい。

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