WANAC第2期第8回レポート

4月から始まったWANac2期も早や8回目となりました。
どこまでたどり着けるか、それぞれが自分の問いと向き合いながら迷走? いえいえ、ゴール目指して走り続けています。
今月はお二人のレポートをお届けします。上野ゼミの臨場感をお楽しみください。

レポート①
 今回、とうとう進捗状況の一覧表が作成された。誰が、今どこまで進んでいるのか。一目瞭然の資料が出来上がった。できれば目を背けたい事実だ。前を走っているメンバーの後ろを、おどおどついていきながら、ただの感想に等しいコメントしか出せていない自分が丸裸になってしまった。寒くなるこの季節。このままではいけない。少しでも前に進まなければ。自分がやりたくてやっているこの学び。うえの先生の鋭く心に響くご指摘と、意思を同じくする人たちからのエールを含んだコメントを紡いで、知識と自分がやりたいことを表現する力を身に着け、自分を守れるくらいの衣をまとえるようにはならなければ。それにしてもアドバンス受講生皆の着ている衣がキラキラ光って見える。私も早く身に着けたい。焦ってもだめだ。一枚ずつ,一枚ずつ。
 ここではみんなの前に出て発表し、丸裸になればなるほど気持ちは温かく、熱くなっていく。話が通じる人たちの前で,自分の意見・考えを堂々と述べる。たくさんの文献やサイトの情報が次々に届く。温かい…熱い…。衣を着ていなくても大丈夫ではないだろうか。そんな気さえしてくる。ぺたこぎー?でぃすぷりん?オートエスノグラフィー?分からない言葉を即座にメモしてやり過ごし,後で必死に検索する。正しくはペタゴジー,ディシプリンだった!恥ずかしい。また何も着ていないことに改めて気づく。
誰だ?うえの先生のコメントが愛にあふれていると言ったのは。メンバーからのコメントがありがたく、勇気をもらえると言ったのは?その通りじゃないか!
 さて、今回は大学院生活の中での指導教員との葛藤について、放課後も使って盛り上がった。きっかけはジェンダー平等をめざしてきた私が、大学院で学んでいて疑問に思ったことを研究計画書として発表したこと。対等性を重んじるフェミニズム的視点と,大学院という構造的で,上下関係が明確で,不明瞭な評価制度との対比について。また,授業で教えてもらえない研究の進め方・特有の言語・振る舞いの暗黙のルールについて。
 コメントとして,うえの先生から指導教員の大変さが語られ,「止まらないから放課後ね」ということで,皆の発表が終わった後,機会を設けることになった。放課後では,アドバンスメンバーの数々の苦労話が聞けた。それだけでも安心できる。心強い。これはシスターフッドだ(男性もいるけど)。また,うえの先生の「論文が書けない院生の修論を通してあげる責任がある。主査と副査で引き上げなきゃならない。院に進む前に,きちんと指導教員を選んだの?」はい,その通りです。全部私のことです。何も知らないで文句ばかり言っていました。こんな私を指導教員は見捨てずご指導くださっています。話を聞けて良かった~。今日発表するまで不平不満だらけだったのに,今は指導教員への感謝を持てている。
 肝心のアドバンスについてご紹介(告白)すると,前述の進捗状況の一覧表でやるべきことがしっかり見えている(まだ何もできていないけど)。目次だけでなく,そこで何を書くつもりなのかを明らかにする工程が加わった(途中で意見がもらえるのはありがたいです)。そして,3月末までに研究をパワポでプレゼンする(ほんとうに形にするんですね)。こうやって,目に見える形で進んでいけるのはありがたいです(まだまだこれからですが)。
 最後に,直近で私が感銘したうえの先生語録を2つほど。
・どうぞご自由に。あなたが学びたいものを学ぶことが一番です。
・研究はあなたを待ってくれます。(苦渋の決断でアドバンスを去らなければならなかったメンバーに対して)
もっと学びたいです。学ぶことは楽しいです。そう思わせてくれるアドバンスです。

レポート②
 今回は発表者のエントリーが6名と少なく、上野先生から「君たち、サボっているね」と突っ込まれ、冷や汗ものであった。研究の進捗状況は受講生による個人差が極めて大きく、私は未だに第一段階の研究計画で足踏みしている。一方、今回は素晴らしいサンプルチャプターを発表された方が2名おり、その方たちの後姿がどんどん遠ざかっていくように感じた。ただ、カメの歩みよりのろい進み方であっても、自分なりに何度も研究計画を考え、行き詰まったときには勇気を出してWANの先輩に相談することができた。おかげで何とか「自分にしか立てられない問い」に近づけた気がする。自分の発表に対して毎回すべての受講生からコメントをいただけること、徒然草の「あらまほしき先達」のように頼りになるWANの先輩に相談できること、受講生個人のペースを尊重してくださる上野先生の海のような包容力と懐の深さに、いつもいつも感謝でいっぱいである。
 しかし、このように理想郷のような「おとなの寺子屋」WANAC2と現実との間で葛藤することも多い。例えば私は毎回講座終了後のレスカ(レスポンスカード)に貴重な学びの機会への感謝と「研究のため精進します」という旨の決意表明を記す。その時は心からそう決意するのだが、日常に戻ればフルタイム就労で残業も多く、還暦を過ぎた身体には負荷が大きい。がんばりたい気持ち(精神)とがんばれない現実(身体)の間で引き裂かれそうになり、無力感に襲われながらも、何とかしがみついている状況である。
 現在私が携わっている社会的養護関連の児童福祉・心理の領域では課題が山積しており、研究テーマも山ほどある。社会人として長年ある分野に関わってはじめて問題の核心が見えてくるような瞬間があったり、問題が繰り返されるパターンからその構造や解決手段を学んだりして、「自分なりの問い」が生まれることがあると思う。私の場合、その「自分なりの問い」に辿り着くまでとても時間がかかり、50歳を過ぎてから大学院への進学を考えるようになった。アカデミックな研究者を目指すのは既に遅すぎて無理だが、幸い支援の現場におりソースは豊かにあるので、理論に基づく実践家になりたいと考えたのである。そこで、私は、働きながら心理学系の社会人大学院2校(いずれも修士)に通い、心身を削る思いで何とか修了したのだった。
 今回WANAC2の放課後の時間では、大学院の指導教員との関係に関する話題で大いに盛り上がった。自身の経験から、社会人大学院生として学ばれている他の受講生の方々の苦悩や不安には共感するばかりである。大学院進学を志すのであれば、研究目的を明確化し希望する指導教員の研究室を訪問するのが原則であるが、私の場合、そもそも正職員として働く現場を手放すことができなかった(本来の目的である実践ができなくなってしまう)ため、通える大学は限られていた。仕事以外にも地理的な問題や家族の状況、経済的な制約などにより、意欲はあっても学びや研究の機会を得られないひとは少なくないと思われる。いったん社会に出てからの学び直しには多大な労力がかかり、年齢が上がり責任も重くなる中で日々が過ぎ、機会を逃してしまうこともあるだろう。
 以上のように考えると、WANAC2は非常に稀有な場であり、その存在意義は限りなく大きい。近年、国はリカレント教育やリスキリングを推進しているが、これらが目指すのは主に仕事に役立つスキルや知識の習得である。WANAC2では受講生がもっと深く自らの問いを探求することができ、学生にも社会人にも広く開かれた学びの場となっている。Zoomが使えれば世界中から参加でき、上野先生から直接コメントがいただけるという、何と畏れ多く贅沢なことだろうと思う。今この文章を書きながら、いろいろ遠回りをしたが、ここまで辿り着いた自分は本当に恵まれているとつくづく実感する。他の受講生は私よりももっと忙しく日々の仕事や研究に取り組んでおられる方も多いと考えられるが、WANAC2で毎月エネルギーを補給してがんばられているのだろうと思う。自分にとっても月1回、厳しさと緊張の中にも豊かなオアシスの恵みで生かされる時間となっている。