3月から開催されてきた法務省「売買春に係る規制の在り方検討会」は、9月17日の会合で報告書案を了承した。8月に公表されていた案に修正を加えたものである(取りまとめ報告書(案)〔改訂版〕)。主要メディアは、「買う側」の勧誘行為にも規制を設けるべきだとする点を中心に報じ、法務省はこれを踏まえて売春防止法改正に向けた検討を進めるとされている。実際、報告書は「売買春」そのものの処罰については慎重な議論を記しているが、「売り手」の勧誘処罰は現行法のまま維持することに大方が同意し「買う側」の勧誘規制の必要性について異論がなかったと記載している。
検討会の開始以来、このテーマを取り上げる記事は少なくない。そこでしばしば目につくのが、「買春」処罰に賛成か反対か、「売春」は搾取か労働か、「売り手」は強要された被害者なのか自発的に選択しているのか、さらには「セックスワーク」という語を使うか否か、といった対立軸を立て、異なる立場を併記する、「両論併記」の形式をとる記事である。
一例をあげるなら、朝日新聞は検討会が始まった直後の3月24日に、【まとめてわかる】「買う側」処罰に賛否 売春防止法見直しの論点は 、
8月6日に、上野千鶴子×鈴木涼美 対話で問う売春防止法 性風俗は「ワーク」か、
8月7日付で、上野千鶴子が鈴木涼美に問う 性風俗経験で「得たもの、失ったもの」、
また9月9日には「売春防止法のあり方」で、いくつかの異なる立場を紹介している。それぞれの論者は自身の問題意識から丁寧な議論を展開しているが、記事はいずれも「買う側」への処罰についての賛否を見出しやリード文に掲げている。
しかし、こうした対立軸には疑問を感じざるをえない。たとえば、「搾取か労働か」はそもそも二者択一ではない。労働であることと搾取的であることは両立しうるし、劣悪な労働条件のもとにある労働者は暴力や搾取の被害者である。ただ被害を受けているからといって、その人の行為主体性が直ちに否定されるわけでもない。同様に、「自発か強制か」も、現実の選択を十分に捉える二分法ではない。所得、他の就業機会、家族関係、暴力、在留資格、スティグマなどの条件のもとで、選択可能性には大きな幅がある。なにより、これは抽象的な立場の争いではなく、好むと好まざるとにかかわらず、そこで生活している人々の安全や生計、支援へのアクセスを左右する政策の議論である。報道の「両論併記」は、結果として単純な二分法の対立軸を強化し、課題の多様性、複雑性を見えにくくするとともに、何よりも共通する重要課題から焦点をそらしてしまってはいないだろうか。
少なくとも、「売り手」当事者の処罰を見直し、支援を充実させる必要性については、異なる立場のフェミニストの間にもかなりの共通部分があり、それこそが法務省検討会報告書とは明らかな対立軸を構成している課題である。しかし、「買春者」処罰をめぐる対立軸が前景化すれば、「売り手」当事者の非犯罪化と支援の要求という切実な課題は霞んでしまいかねない。
ジェンダー論に関わってきた者として銘記したいのだが、ジェンダー論が繰り返し問い直してきたものの一つが、二分法である。二つに分けることは、両者の違いを過剰に際立たせ、同じとされるものの中での違いや多様性、また両者の連続性や共通点を見えにくくする。さらに注意すべきなのは、どこに境界線を引き、何と何を対立項として設定するかである。分類は中立的な記述ではない。それ自体が、何を同じものとし、何を異なるものとして可視化するかを決める作用をもつ。
では、報告書そのものは何を論じているのか。まず確認しておきたいのは、この検討会の直接の契機が、路上等における「売買春」の勧誘行為が社会的な問題として指摘されてきたことにあるという点である。検討対象はそこから「売買春」そのものの処罰や法の目的にまで広がっている。「売買春」そのものを一律に処罰する方向については全般的に慎重な議論が記されているが、ただし、検討会の主要な問題意識にかかわる路上勧誘に関しては、買う側の勧誘規制の検討を示唆している。またSNSなどネット空間における勧誘行為も規制対象として記載された。
一方「売る側」の勧誘行為については「支援を必要とする人が多い」との認識を重ねて示しながら、現行法の処罰を維持することにはほとんど異論なく大半の委員が賛同している(p.10)。挙げられている意見は「社会の風紀を乱し、公衆に迷惑を及ぼすという法益侵害がないと考えることは困難である」「自らの意思で売春をする者も一定数いることを否定できない」「売春をする目的での勧誘等に係る処罰規定を廃止した場合、そうした行為が許容されているという誤ったメッセージとして社会的に受け止められるおそれがある」など、「社会の風紀の乱れ」への対策が目的であることが明示されている。「売春をする者に対する保護・支援の在り方について」(p.15)においても「関係機関において、支援体制の整備や法の運用についてより一層適切な対応がなされることが必要」等の抽象的な見解は繰り返し述べられるものの、「売春をする者の刑事処分や量刑を判断するに当たっては、売春に至った経緯や経済的事情、支援の必要性等の事情を十分に考慮することについて、法に何らかの規定を設けることも含め、検討がなされるべきである」という立法にかかわる具体的な意見については、8月案ではこの具体案について「異論はみられなかった」とされていたが、9月改訂版ではこの記述が削除された。この変更が何を意味するかは議事概要の公表を待つ必要があるが、少なくとも、「売り手」当事者支援を刑事処分の判断に具体的に組み込む方向について、報告書の表現は後退している。
総じて、報告書は売買そのものの一律処罰には慎重だが、買う側の勧誘規制を検討する一方、 「支援を必要とする人が多い」と認識しながら、売る側の勧誘処罰を維持している。この構成からは、少なくとも路上勧誘について、当事者の安全や生存条件の改善よりも、「社会の風紀」や公共空間からの排除が前景化しているように見え、結果として、政策の成否が「路上から見えなくなること」によって測られかねない。
「売り手」当事者が処罰される可能性があることは、安全が脅かされたり、生活が行き詰まったり、あるいは権利や意思が尊重されない状況に陥った時に警察やその他の相談機関につながることを妨げ、たとえ暴力や強要、搾取が蔓延する環境で暮らし働いていたとしてもそこからの退出を困難にする要因となりうる。「売り手」当事者の権利と生存条件の改善の必要性は、自発的であるか否かを問わず共通であり、そこに重大な対立があるわけではないはずである。一見対立して見える「退出支援」と「労働者の権利保障」は、選択肢を実質的に保障するという点では、むしろ共通の基盤をもつ。労働として考えるからこそ、強制労働が違法であることは言うまでもなく、契約したからと言って何をされてもいいわけではなく、嫌なら中止でき、行為内容を限定し、条件変更を拒否する権利を要求できる。そして、労働者の権利には当然ながら辞めたい時に辞める権利も含まれている。辞められることと、続ける場合に安全に働けることは対立しない。ある営みを「労働」と捉えることは、その制度を肯定することではなく、纏わりつくさまざまな道徳的・性的な規範からいったん距離をおくことを可能にする。労働として捉えるからこそ、搾取、権利、拒否、退出の条件を具体的に問うことができる。
しかし労働を辞める自由の保障は代替生計手段なしには実現しない。男女の経済格差がきわめて大きく、他の所得機会が乏しい社会では、この仕事を選ばざるをえないという選択を構造的に生み出す条件がある。社会構造の変革なしには、非自発的にこの仕事に就く人たちがいなくなるわけではないのである。
「買春者」処罰については、すでに多様な制度が実施されている諸外国の調査結果等を慎重に検討する必要があるだろう。問うべきなのは、どの立場が「正しい」か、ではなく、それぞれの制度が、そこで暮らす人々の安全、生計、選択可能性に実際にどう影響しているのかである。好むと好まざるとに関わらずそこに暮らしている人々抜きにはこの議論はできないからである。二分法のどちら側に立つかを競うのではなく、その対立軸自体が何を見えなくしているのかを問い直す必要があるだろう。
諸外国の制度とその評価研究については稿をあらためて検討したい。
2026.09.23 Wed
カテゴリー:シリーズ / 「性売買」をめぐる二分法を超える
タグ:売春防止法









