10月18日から20日まで、ふぇみん(婦人民主クラブ)が主催する北海道ツアーに参加した。アイヌルーツの人たちの話を聞く貴重な機会や「いつか行ってみたい」と思ってきた「ウポポイ(民族共生象徴空間)」見学など、盛りだくさんのプログラムが組まれていたからだ。
初日の午後、アイヌをルーツに持つ原田公久枝さんのお話を聞いて、その壮絶な半生に衝撃を受けた。講演後に今夏、出版した初の著書を販売するというので購入し、サインしてもらった。著者のサインとともに「iyayraykere(イヤイライケレ)」、アイヌ語で「ありがとう」と書いてある。

それが写真の「アイヌやめるのやーめた!」(定価2,000円+税、寿郎社)だ。表紙のタイトル文字はラメの入ったピンク。カバーイラストは原田さん自身が描いた自画像だ。
タレント本かと見まがうようなポップな色づかいの表紙をめくると、次に銀色のページが現れ、自分の顔が(鮮明ではないが)鏡のように映し出される。まるで本から「ようこそ!」と声を掛けられているような気持ちになる。
原田さんは1967年北海道河西郡芽室町生まれ。地図で確認すると芽室は、日高山脈の北東、帯広の西隣にある。「知る限りの血縁者は全員アイヌ」という原田さんによると、アイヌがたくさん住んでいる町だという。
原田さんは小さいころから様々な理不尽な目に遭ってきた。普通ならいくつかの事例を挙げて紹介するところだろうが、私はここには記さないでいたい。それは、本を手に取って読んでほしいからだし、ここに私が記すことが新たな差別につながることを恐れる気持ちがあるからだ。
中学校1年生の時に書いた「差別」という作文が、昭和55(1980)年度釧路人権擁護委員会連合会が主催した「人権擁護に関する作文コンクール」で最優秀賞を受賞。生まれ育った町でちょっとした有名人になって、それまで以上にいじめられ、親戚などから「生意気だ」と言われるようになった。しかも通信社を経て全国で報道され、作文の一部が社会の教科書に採用されたため、一時は1日に100通ぐらいの感想の手紙が届いたという。中にはもちろん、悪意の手紙も含まれていた。
多感な思春期の子どもにとって、受賞の経験は自らへの自信となるとともに、それがもたらした予期せぬ出来事のあれこれは、受け止めるのが難しいことだっただろう。原田さんは「こうして私は気の強いイヤな女になった」と書く。
高校受験に失敗し、原田さんは三重県松阪市の紡績工場に就職した。その時、母に「きくはもうアイヌやめるわ」と宣言したという。
その後も原田さんは、就職差別をはじめ、様々な困難な出来事に遭遇し、いろいろな人たちと出会う。それらの体験を、第1章「私の人生」、第2章「私の家族」、そして第3章は2018年から4年間、北海道新聞に連載したコラム「朝の食卓」で、軽妙な読みやすい筆致でつづる。そして今、この本を著したことで「アイヌやめるのやーめた!」と高らかに宣言する。
大柄で豊かな毛髪を持つ原田さんの人生は、アイヌ、女性、貧困などのインターセクショナリティにさらされる現場を生き抜いてくることだったと思う。自らが選んだことではない「生まれ」を引き受けて生きると決めた姿は、きっぱりと美しい。そして私はそこに、おぼろげな既視感を持つ。それは、数々の先輩フェミニストたちに通じる姿勢であるに違いないから。
日本国憲法第14条は法の下の平等を謳い、「すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。」と書いている。その精神を体現して生きていくのは、私たちだ。
【付記】ふぇみんの北海道ツアーでは「ウポポイ」だけでなく、平取町立二風谷アイヌ文化博物館、沙流川歴史館、萱野茂二風谷アイヌ資料館なども見学し、一般社団法人「アイヌ力(ぢから)」事務局長の山下明美さんに、旧帝国大学の学者たちが盗掘して研究材料とした「アイヌ民族の遺骨問題」についての話も聞いた。「ウポポイにある」と聞いていた、遺族に返還されていないアイヌの遺骨を納めた慰霊施設は、ウポポイの敷地内ではなく、入り口から1400メートル先、徒歩で約15分あまり坂を上った高台の上にあった。途中の道には「ヒグマに注意」という看板もあった。









