2010.08.23 Mon
実は、BL/やおいの定義やいかに?と言われるとよく分かっていない私。定義について議論を始める研究者を前に「そうなんだー」とぼおっと聞いているだけのザンネンな役回りになってしまう。そんな私のお薦めは、よしながふみ「1限めはやる気の民法」。よしながふみは「BL界の超大物」と評されることもあれば、「BL作家として評価が高いわけではない」と言われることもある。らしい。
「大物」であってもなくても、よしながふみが描く男同士の関係って、基本的には全部スキ!でひそかに(?)いろいろ読んでいる。実は、「それを言ったらおしまいよ」も好きだし、「きのう何食べた?」も「執事の分際」も好き。
でもイチオシと言われるとやっぱ「1限めはやる気の民法」な気がする。なんでイチオシかって考えると、多分、性的な場面(ベッドシーンともいうが場所がベッドだけとは限らない)における関係性にしばられない二人の関係が、きちんと描けているからじゃないかなと思う。性的な刺激・快楽ってのは、(1人でやるんじゃなければ)、それは相手との関係性によってこそ快楽の質・満足が決定づけられるという部分は確かにあるんだけれど、服を着ている時の自分ではないような、我を忘れて貪欲に快楽を追い求めるという部分もあるわけで。性的な満足を得るという経験は、ある意味では「ああ自分も生物(イキモノ)なんだ―!」としみじみしてしまうことでもある。
して、我を忘れて没頭する快楽の瞬間があるにもかかわらず、それでも果ててしまえば、日常の関係性に戻る。
長いこと、私は、この没我の瞬間と日常の瞬間が繰り返されるという事実について、誰と誰がやろうとも、(男と女がやろうとも、男と男がやろうとも、女と女がやろうとも)かなり「変」なものだよな、と思っていた。
その「変さ」を愛情をこめてきちんと描けているなー。とよしながふみ作品を読みながら思うのだ。性的な場面におけるデレと日常の場面におけるツンのバランスが、私にとっては好ましい。相手との私的関係の中で常にデレなわけじゃなく、私的関係の中にもツンとした関係性とデレとした関係性が併せ持たれるのが、多面的な人間=大人における人間関係ってもの。人間、エッチだけで生きてはいけない。恋人がいようと愛人がいようと、自分の人生は自分で設計して自分で建設していくしかないわけで、性的悦楽に溺れるだけ溺れて、性的関係さえあれば自分の人生を相手にゆだねられると言わんばかりの幼い物語には、もはやついていけなくなってしまったのだ。
性的行為って、確かに我を忘れて快楽なんだか快楽でないんだか、よく分からないほどの没頭に入ってしまうことも多々あるんだけれど、しかし、それが自分の人生を支配しているわけではないよね、という、あまりに当たり前のことをきちんと描けているから、「やっぱりよしながふみっしょー」ということになる。
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