大女優マリア(ジュリエット・ビノシュ)のもとへ、舞台「マローヤのヘビ」のリメイクへの出演オファーが届く。この「マローヤのヘビ」は、20年前に駆け出しの俳優だった彼女をスターの座へ押し上げることになった、彼女にとってはかけがえのない作品だ。しかし、今回マリアに求められた役柄は、かつて演じた20歳の主人公・シグリッドではなく、シグリッドに翻弄され傷心の末に自殺する40歳の会社経営者・ヘレナだった。
マリアのマネージャー兼個人秘書のヴァレンティン(クリステン・スチュワート)はこのオファーを受けるよう勧めるが、マリアは中年の脇役をあてがわれたことに対して、自分の女優としてのプライドが許さない。しかも、かつてマリアの演じたシグリッド役に、ハリウッドで華やかに売り出し中の新人女優ジョアン・エリス(クロエ・グレース・モレッツ)を起用すると言われたからなおのこと、心が穏やかではいられないのだった・・・。
マリアは、もはや「若くて、美しく(かわいらしく)、性格が良い(従順、けなげともいえる)」といったお決まりのヒロインの条件には、とっくにあてはまらない年齢に達した大人の女性である。豪奢なシャネルのドレスも全く嫌味なくエレガントに着こなし、既に名声も富も(もちろん若いころには決して手に入らない、成熟した美しさも)手に入れた大女優だ。であるにもかかわらず、ヒロイン役から外される自分であることを突き付けられて、今更のようにうろたえる。
人が、人生の中で「若さ」の特権を手にできる時間は、長くは続かない。だから、若さの特権をまとった美しさを手にした人にとって、その呪縛の力も大きいのだろう。とはいえ、誰もが大なり小なり経験することになるアイデンティティの揺らぎに伴う焦り、不安、怒り…、そういったある種見苦しい感情を、マリアを演じるジュリエットは、わたしたちの目の前で生々しく吐き出してみせる。その葛藤から目が離せないでいるうちに、やがてマリア(主人公)/ヘレナ(マリアが演じる劇中劇の役)/ジュリエット(マリアを演じる本人)という、この映画の三つの層に存在する女性像が、オーバーラップして見えてくるのも面白い。
物語は、チューリッヒ、スイス東南部のシルス・マリア、そして劇中劇の舞台上という、3つの場面で展開していく。それらをとおして常に物語の中心に位置するのが、「マローヤのヘビ」という舞台だ。そもそも「マローヤのヘビ」とは、シルス・マリア近くのマローヤ峠に出現する、ヘビのような不思議な動きを見せる雲の名称のことである。ちなみに、本作品の原題は“Clouds of Sils Maria”。物語を追っていくと明らかになるが、マリアは、舞台と現実、両方の「マローヤのヘビ」に導かれるように、自分の人生の転機に直面する。その「マローヤのヘビ」へ、マリアに寄り添うように誘導していくのがヴァレンティン/クリステンだ。彼女がいなくては、マリアの自己喪失から再構築への越境はないし、ジュリエットの迫真の演技もなかったかもしれない。この映画で2015年、アメリカ人俳優としては史上初の仏セザール賞助演女優賞に輝いたクリステン・スチュワートの怪演も見逃せない作品だ。公式ウェブサイトはこちら。(中村奈津子)
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