女性学講座 エッセイ

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表現とメディア研究のセカンドステージ 第7巻 『表現とメディア』 堀あきこ

2010.08.16 Mon

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旧版が刊行された1995年から、「表現とメディアに関するフェミニズム視点の研究は、メディア研究と女性学・ジェンダー研究との両方の意味で、パラダイム転換をむかえた」と、冒頭の増補編解説で井上輝子さんは論じている。

[color=000066]この分野の従来の研究は、メディアの描く女性像ないし男女像の分析に主眼があった。メディアが、変化しつつある現実の男女関係と乖離し、伝統的な女性像・男女像のステレオタイプを再生産していることを批判する一方で、メディア組織の男女比率を調査することで、情報の「送り手」のジェンダー・バイアスを問題化した。[/color][井上: 16]

こうした分析に、カルチュラル・スタディーズによる新たな視点(情報発信過程で働く力関係の分析や、読者・視聴者によるテクストの多様な読みや解釈の分析)、ジュディス・バトラーら構築主義フェミニズムによる転換がもたらされた。
「すでにある社会規範としての<女性性><男性性>が、メディアなどを通じて個々人に伝達される」という単純化された捉え方になりがちであった分析から、「ジェンダーが構築される過程」へと分析枠組みの変化がもたらされたのだ。

井上さんは、パラダイム転換をむかえた現在を、“表現とメディア研究のセカンドステージ”と表現している。本書に収められた論考を順に読んでいくと、この流れがはっきりと感じられる。
私はマンガというメディア、なかでも、読者がどのように作品を解釈しているのか、その解釈を導く仕組みはどのようなものなのか、といったこととジェンダーとの繋がりに関心を抱いている。そうした自分の関心が、「女性とメディア研究」から「ジェンダーとメディア研究」へ、という流れの中でどこに位置するのか確認する、という意味でも、本書は非常に面白かった。ここでは、自分の興味に引き寄せていくつかの論考に触れてみたい。

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斉藤綾子さんの映画分析は、セジウィックが論じたホモソーシャルな<男同士の絆>と、ホモセクシュアルな関係との連続性を、「やくざ映画」(東映任侠映画)における高倉健の肉体に見たものだ。

[color=000066]高倉健はつねに、他の男優との関係のなかで「男が男を男として認める」という図式を体現化してきた。やくざ映画を見続けた観客たちも、その高倉健が「男になっていく」姿を目に焼き付けたのだろう。当時の反体制の若い観客たちにとっては……高倉健のみが自らに近い存在として同一化と共感を生む「健さん」となりえたのであり、たとえ虚構の関係であっても、強い感情的な絆を結べる存在であったのではないか。[/color][斉藤: 233]

高倉健の映画と男性観客との間に結ばれる強い感情的な絆、それを斉藤さんは「男から男へという映画と観客との強い一体感は、女の私などはとても入ることのできない空間である」[: 222-3]と表現する。

少年マンガなどを男性キャラクターの恋愛物語と読み替え、二次創作によって別の物語につくりかえる“やおい”というジャンルがある。やおいは作り手・読み手、ともに女性が大半を占めていることが特徴的だ。女性が描き女性が楽しむ、男同士の関係――。やおいは、作中のホモソーシャルな関係とそこに隠されたホモセクシュアルな関係性を暴き、さらに斉藤さんが「女の私が入ることのできない空間」と論じた場に二次創作という手法を持ちこむことによって、作品と男性読者(観客)が結ぶ男同士の絆に亀裂を生じさせている、といえるだろう。
ホモソーシャルな関係での女性の位置は、男性間で交換されるものであったが、やおいにおける女性の立ち位置は、男同士の絆を客観的に眺め、楽しむものである。セジウィックは、ホモソーシャルな関係は現代社会の構造基盤である、と論じているが、そうであれば、“やおい”は、社会に潜む権力構造を逆照射する行為、として考えられるのではないだろうか。

また、中村桃子さんの論文にある、「ぼく」という自称詞を使える男子と違い、女子の自称詞である「わたし」は、女性的セクシュアリティを期待される異性愛市場に参加することを意味する、という言葉にはハッとさせられた。女の子が「男ことば」を使うのは、「女のセクシュアリティのジレンマを保留した、言語版の男装なのである」[: 288]という指摘は刺激的だ。(J-POPの女性ボーカルの歌詞の自称詞に「ぼく」が多いことも、これと関係しているのだろうか?)

[color=000066]少女が「おれ・うち・ぼく」をつかうのは、決して日本語を乱しているのではなく、そもそも日本語に「○○ちゃん」から「わたし」へと突然「大人の女になる」自称詞しか用意されておらず、<子ども>でも<女>でもないアイデンティティを表現することばがないからなのである。……少女の言葉づかいは「乱れ」などではなく、ことばの不足を超越した創造的な言語行為だと言える。自分たちにぴったりのことばがない以上、これからも少女たちはさまざまな自称詞を創造しつづけるだろう。[/color][中村: 290]

先ほどあげたやおいやBLに関する研究分析には、自分と同じ女性身体を持つキャラクターによる物語では、女性ジェンダーや女性に対する性規範から、女性読者も女性作者も自由になりづらい。それを逆手にとった男性同士の設定だからこそ、女性をファンタジーに導きやすいのだ、というものがある。
やおい/BLも、男男間という設定を「創造」することによって、男女間の設定では描けない・描きにくいことを表現しているという一面も考えられるだろう。

少女マンガに描かれる物語も、BLに描かれる物語も、女性と私たちが生きる社会との「綱引きの場」にある。「綱引きの場」とは、本書の冒頭に、「規範として期待される女性像と、女性自身の現実や希望とが、ある時は妥協し、ある時は拮抗する。両者の綱引きの場として、メディアは存在する」[: 3]と書かれている言葉だ。
たとえば、マンガには恋愛と地続きにある性の問題が数多く描かれている。すでに多くのメディアで報道されているのでご存じの方も多いだろうが、「青少年にとって有害である」という理由づけによって、現在、女性の手による女性のための性表現を含んだメディアが規制を受けつつある。

中村さんの論文に、異性愛市場が出現すると、「おくて」と「おませ」の両極の間のさまざまな場所に、子どもたちのアイデンティティは位置づけられ、さらに少女は、「娼婦か聖母か」という選択を迫られる、とあった。
少女は、「お前の身体は性的なものなのだ」というメッセージを、さまざまな形で社会から受けている。その一方、少女は性に関する知識から隔離され、性的に無垢であれと社会から要請される。「お前の身体は性的なものなのだ」という信号を常に受けとりながら、「娼婦か聖母か」選ばなければならないという矛盾を抱え込まされているのだ。
少女マンガやBLを「綱引きの場」と見るなら、そこは、ファンタジーとしてのみあるのではなく、社会と女性自身の現実の問題とが重なり合う場であるはずだ。女性が主体的にメディアの送り手・創り手として深く関わっている場という側面からマンガを見ることが、今、必要ではないかと私は感じている。(堀あきこ)








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