エッセイ

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イスタンブールの子どもたち(旅は道草・21) やぎ みね

2011.10.20 Thu

イスティクラール通り

  イスタンブールの朝は早い。朝焼けのモスクからコーランの祈りが聴こえてくる。
 スィルケジ駅裏の安宿の朝食はパンとチャイと、振り売りの少年から買ったスイカを数切れ。

 イスティクラール大通り。トラムヴァイ(市電)にぶら下がる若者たち。レールの上をおかまいなく走る車。街角でトルコ風の伸びるアイスクリームを一つ買う。

ガラタ橋

 金角湾に架かるガラタ橋は、ひがな一日、小アジを釣る男たちでいっぱいだ。

イスタンブールの子どもたち

  トプカプ宮殿の開門を待っていると、向こうから校外学習の男の子と女の子が駆け寄ってきた。
 覚えたての英語で「What’s your name?」と聞かれて「Mine(ミーネ)」と答えると、一人の女の子が「私もよ」と、にこっと笑ってウィンクする。Mineはトルコの女の子に、よくある名前だとか。宿のフロントのおじさんが私のパスポートを見て教えてくれた。

 子どもたちはガイドブックの地図を指して、あれこれと説明してくれる。

 迷路のようなグランドバザールの裏道を大きなズタ袋を背に少年が急ぎ足にゆく。いったい何が入っているんだろう。卸で仕入れた品を小分けして売るのかな。

 スュレイマニエジャーミーの高台からガラタ塔を眺めていたら、ティッシュ売りの少年がやってきた。「ひとつ、ちょうだい」と少し高めのティッシュを買う。
 街角の木陰の店で飲んだチャイも、給仕の少年がスイスイと運んできてくれた。

エジプシャン・バザール

 トルコの子どもたちの就学率はどのくらいなのか。エジプシャン・バザールの「エドの店」のエドさんは、フェニキア絨毯を織れるのは15歳までの女の子に限られるという。「就学率が上がったので今は織り手が減ってきたけどね」といっていたのだが。

ボスポラス海峡

 アジア側のユスキュダルへ連絡船で10分。1950年代、アーサー・キッドの「ウシュクダラ」を子どものころ、よく歌ったものだ。「ウーシュクダーラ ギーデーリッケン アゥドゥダビリアンムール」、江利チエミもカバーしていたっけ。
 ボスポラス海峡を一望する、この古い町も、今は対岸の職場に船で通う、こぎれいな住宅地になっていた。

 トルコのテレフォンカードは、なんでこんなに安いんだろう。50度を買ってパリの友人に、ずいぶん長くかけたつもりなのに、度数はちっとも減っていない。ヨーロッパで働く移民労働者と母国の家族を結ぶために、格安の国際電話料金にしているのだろうか。

 イスタンブールとマルタを往復。マルタ航空は曜日によっては深夜便か早朝便しかない。夜中の3時にアタチュルク空港に着かないといけない。困ったなと、フロントのおじさんに相談すると宿の車を安くチャーターしてくれた。

 真夜中に走ってくれた若い運転手に感謝して約束の料金+チップを渡す。深夜の空港はアラブ系の人たちでいっぱいだった。

 マルタからイスタンブールへ、帰りの便も着いたのは夜明け前。地下鉄の始発を待って空港ロビーで、ひと眠り。

 市電の切符売り場がわからず、うろうろ探し歩く私を見て、早朝出勤の人たちが怪訝そうに通りすぎていく。たぶん、「朝帰りの酔っぱらい女」と思われたのかもしれない。

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カテゴリー:旅は道草

タグ: / やぎみね / イスタンブール