エッセイ

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函館のアンの家(旅は道草・22)  やぎ みね  

2011.11.20 Sun

 夏の終わり、旭川~定山渓~小樽~積丹半島~洞爺湖~函館と1000キロを走った。 娘夫婦といっしょに、1歳の孫娘を父方の実家へ顔見せに。孫の「ゆい」は、チャイルドシートに座ってiPadの童謡を聴きながら、なんとか機嫌よく過ごしてくれた。旭山動物園で初めての動物たちに目を輝かし、広々とした洞爺湖をクルクル指さしては喜んでいた。そして帰途の飛行機は台風12号の余波で欠航となった。

  おまけにもらった1日、函館はよく晴れた。五稜郭のパノラマの景色も、立待岬から望む、はるか向こうの下北半島も、くっきりと見渡せる、いいお天気に恵まれた。

 ハリスト正教会を下り、お昼をどこにしようと迷っていたら、森の中の一軒家のようなカフェレストランが、ふと目にとまった。「グリーン・ゲイブルズ」と看板がかかっている。  「あら、アンの家じゃない?」。入るとそこは、アンが、マシューとマリラの老兄妹に引き取られた家の佇まいにそっくり。ヴィクトリア朝の質素な家具と『赤毛のアン』関連の本がぎっしりと並び、部屋には1950~60年代のヒット曲が流れていた。手づくりのパンケーキが、とびきりおいしい。オーナーの女性は私よりちょっと歳上ぐらいかな。

  アン・フリークとまではいかないけれど、私も子どもの頃、『赤毛のアン』を夢中になって読んだ世代。アン・シャーリーという、おしゃべりで空想好き、そばかすだらけの赤毛の少女に自分を重ねて、まるでアンのように途方もない空想にふけっていた。

 だけど、『アンの愛情』『アンの幸福』と続編を読んでいくうちに「なんか、ほんとのアンとちょっと違うんだけどな」という思いが、どうしてもぬぐえなかった。

  小倉千加子の『「赤毛のアン」の秘密』、松本侑子の『赤毛のアン』の一節「訳者によるノート」を再読して、その謎が少し解けたように思った。  小倉千加子は「少女が孤独に陥ることなく、現実の居場所を発見する方法――それは<結婚>である。モンゴメリのテーマは、ただひとつ<結婚>にある」。彼女を縛っていたのは、レスペクタビリティ(respectability)、「敬意を払われるにあたいすること」であり、それは他人から自分がどう見られるかということであったと指摘する。 松本侑子の詳しい訳注によると、原作は、英米文学の原典からの引用とともに聖句由来の言葉が、なんと多いことか。

  初めて知ったのだが、モンゴメリは1942年4月25日、68歳で死去、その死は神経衰弱によるものだったという。その1年前の1941年3月28日、イギリスの作家、ヴァージニア・ウルフは59歳でウース川に入水自殺をしている。

  二人を結びつけるものは何もない。だが、たしかな「自己」を持ってしまった彼女たちにとって、二人が生きた時代はあまりにも過酷なものだったに違いない。すべての女たちが「ありのままであること」より「女であること」を求められた桎梏(しっこく)から、いつか自由に解き放たれるためには、のちの「ウーマン・リブ」のうねりを待たなければならなかったのではないかと、北の旅の終わりに、ふと思ったりもしてみた。

  ところで私の「うっかり性」は生まれついてのものだけど、野幌のドライブインで、どうやらデジカメを落としてしまったらしい。気づいて「もしや」と店に電話をかけたら、どなたかが拾ってくださり、高速道路の管理事務所から岩見沢警察署へ保管されているという。後日、デジカメは京都の自宅に送られてきた。ああ、よかった。そして北海道の人たちへの感謝の気持ちを、また一つ、旅の思い出に加えた。

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カテゴリー:旅は道草

タグ: / 北海道 / やぎみね