2012.08.20 Mon
「私は書くわ。女の、いろいろな苦しみや悲しみを書くわ。ねぇ、それでなければ私は救はれないもの。どんなにたくさんの女がいろいろなことで苦しんでゐるかしれないのね。私は書くわ」。
『くれなゐ』を婦人公論に連載したのが稲子32歳の時。ともにプロレタリア運動を闘う夫・窪川鶴次郎が偽装転向で出獄した後、夫の女性問題に足をすくわれ、作家である妻と、女の自立をめぐって苦しむなかでの執筆だった。
長崎で、複雑な出自で生まれた稲子は一家の貧窮のため小学校5年で中退。上京し、キャラメル工場や料亭の女中として働く。20歳で資産家の息子と結婚。不幸な結婚は二人の心中未遂で終わる。
「出戻り、子供があって、自殺未遂という恥ずかしいこともやってのけて。それならこれから自分の思うように生きよう。世間の目に縛られまいと思った」(『年譜の行間』)。
22歳の出発。本郷動坂のカフェー「紅緑」の女給となる。そこには同人誌『驢馬』に集う中野重治、堀辰雄、後に夫となる窪川鶴次郎らがいた。
『キャラメル工場から』を書いたのは24歳の時。11歳で働いた工場の生活を、働くものの姿を、自分の感覚で表現したデビュー作だ。
子どもを抱えての執筆活動と革命運動と。小林多喜二の拷問死の後、宮本百合子と二人、小林多喜二の母とともに立ち会ったという。
『くれなゐ』執筆中の30代、アメリカから帰国した作家・田村俊子と夫・窪川との関係を知り、その後、二人でデカダンスへと落ちていく夫婦の共犯関係のいきさつが、50代になって出された『灰色の午後』に描かれている。
戦時下、小説家慰問部隊の一員として満州、中国、シンガポール、スマトラへと戦地慰問に行く。のちに「あたしが行き、そこに行かせた窪川の」という言葉の裏に込められた思いは何か。
昭和20年(1945年)5月、戦争終結を待たずに、窪川と稲子は離婚する。稲子41歳。
同12月、新日本文学会創設の発起人になることを稲子は拒まれる。戦地慰問の戦争責任を問われて。しかし窪川は発起人の一員となった。
翌21年(1946年)3月、婦人民主クラブ創立。稲子は綱領を起草し、宮本百合子らとともに発起人の一人となる。同8月「婦人民主新聞」が創刊。
そして66年目の今年2012年9月15日、『ふぇみん婦人民主新聞』は3000号を迎える。
手元の『婦人民主新聞』縮刷版第Ⅰ巻には、『ある女の戸籍』の連載が始まっている。そこには旧民法下で闘いとった佐田姓(筆名は佐多稲子)について書かれている。遅れて新民法が生まれたのは昭和22年(1947年)12月だった。
50代以降も活発な執筆活動は続く。昭和31年(1956年)、朝日新聞に連載の『体の中を風が吹く』は、当時、小学生だった私も、タイトルに惹かれて、よくわからないままに読んだ記憶がある。
1960~70年代は政治の季節。1964年、60歳で共産党から除名処分。婦人民主クラブ委員長として共産党や中核派との対立をクラブ員とともに闘った。一人の文学者として、一人の女として。
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「二十年代には、私は、自分の戦争責任と、婦人民主クラブ、その二つのことに一生懸命でしたね。しかし、長生きしたもんですね。私、ひとり生き残っているみたいなものだもの」(『あとや先き』)。この頃、稲子は88歳かな。
佐多稲子ほど、多くの文学者たちの弔辞を読み、追悼文を書いた人はいないのではないか。「老年は、わが生涯の照り返しにつつまれる」ということか。
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老境に入ってからの著作が、またいいのだ。『時に佇つ』その十一は、かつての夫・窪川鶴次郎の死去にふれた一章だが、「夫婦であった20年間と、別れた後の30年間」の時の流れと心の距離感が、何とも、いい。中野重治が「ああいうひとは、ほかに、いないもの」といったとおりの見事さだ。
1904年~1998年、佐多稲子は94年の人生を生きた。
文学と革命運動と戦争責任と女の自立と。そのはざまで自己崩壊し、そこから立ち上がって自己対象化を遂げ、自己確認と女の解放へと確かな道を歩いた佐多稲子の「女の『時』」の旅路は、読む私自身の「時」への思いさえ、濃くさせていく。
そこには関係を豊かに生きる他者へのあたたかい共感がある。そして自分を見る、他人の目を持つ冷静さも伴って。
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今回、佐多稲子の本とともに長谷川啓著『佐多稲子論』(オリジン出版センター)を再読し、「そうそう。ほんとにそうね」と、その分析の深さに共感しながら読み進めた。
もう、80代後半になっておられたと思うが、佐多さんが婦人民主クラブの京都の支部に来られた時のこと。お食事をご一緒しながら何かひと言お聞きしたことがある。私が離婚して、めそめそしていた時だったと思う。すると「私は結婚に「失敗」した女だからねぇ」と、お酒を手にして、ちょっと恥じらうようにおっしゃったのが、なんか佐多さんらしくて、うれしくなったことを思い出す。
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