2012.09.20 Thu
沖縄本土復帰40年の今年、9・9オスプレイ配備反対県民集会が開かれた。
参加者は10万人。あいさつに立った共同代表の翁長雄志(おながたけし)・那覇市長は「これだけの反対を押し切って強行配備しようとする日米政府のやり方は、戦後、銃剣とブルドーザーで土地を強制接収したことと何ら変わらない」と強く批判した。
1952年、サンフランシスコ講和条約発効と引き換えに、ヤマトはオキナワを米軍施政下におき、南の島を切り捨てた。
爾来、復帰運動は、ウチナンチューによって粘り強く闘われてきた。
竹中労は復帰前後、何度も沖縄を訪ね、「本土復帰、日ならずしてジャパナイズの潮流この島をおおい、オキナワは観光穢土と化して醇乎たる文化は失われるであろう」(『汝・花を武器とせよ! 琉球共和国』)と予見した。
1972年5月15日の復帰後も、ヤマトは在日米軍基地の75%をオキナワに押しつけ、さらには嘉手納基地の辺野古移設、東村高江へのヘリパット設置と、オキナワの人々のこころと暮らしを蹂躙するばかりだ。
さらに昨年暮れ、辺野古移設の環境影響評価(アセスメント)をめぐって、「評価書はいつ出すのか?」との記者の質問に、「犯す前に、犯すといいますか?」と、信じられないような暴言を吐いた沖縄防衛施設局長・田中聡は、後日、更迭された。
オキナワからヤマトが見える。
この国の行く末をウチナンチューは怒りを胸に、じっと見ている。日米両政府による軍事再編化の強化を。尖閣諸島の動きも背景にして。
「剣をもつものは剣にて滅ぶ」(旧約聖書サムエル記・上)。武力をもつものは、やがて武力によって滅びていくのは歴史の常だ。
かつて琉球王国は武器をもつことなく、中国と「朝貢・冊封」貿易を行い、東南アジアとの豊かな物流ネットワークをもっていた。たとえば沖縄特産の泡盛。タイ砕米を黒こうじで発酵させ蒸留してつくる。古来、シャムとの交流から生まれたおいしいお酒。そう、海に、国境はない。
沖縄は不思議な島だ。
京都・寺町の三月書房で『沖縄的人生』(天空企画編、知恵の森文庫、光文社)を手にした。あら、上野千鶴子さんも書いてはるやん。
「オキナワは、あれかこれかではなく、あれもこれもと海の向こうから取り入れてきたチャンプルー文化だ」。
カチャーシーはみんなで渾然一体となって踊るが、チャンプルーは混じりあいつつ、一つひとつ、味の個性を残している。そこにオキナワの多様性があるという。
書き出しは「オキナワの入り口はふたつある。表玄関と裏口だ」から始まっていた。
表と裏のふたつを案内してくれたオキナワ女性がいた。3年前、50歳を待たずにオキナワの海の彼方のニライカナイに旅立ってしまったけれど。
彼女の案内で一路、北へ。山原(やんばる)の蔵元「ヘリオス酒造」の酒蔵で43度の泡盛をいただく。西海岸沿いに58号線を下り、「万座毛」の断崖絶壁から夕陽を眺める。夕刻、沖縄の土と火にこだわる南蛮焼の窯元へ。3日3晩、焼き続ける1200℃の火がオレンジ色に燃え、山奥から聞こえる蝉時雨と鳥の声に包まれて非日常のひととき。
国立ハンセン病療養所「沖縄愛楽園」は、名護市の羽地内海に浮かぶ屋我地島にある。あたりはひっそりと静かだった。かつて島へ渡る橋は架けられていなかったという。
南部へ。潮が引いた浜辺を素足で歩く。裸足のまま、海辺のカフェのテラスへ。お隣は宮本亜門の家だとか。
コーヒーを飲みつつ、つれづれに彼女と話したことを思い出す。
「あのね、大阪発・西鹿児島行きディーゼル寝台特急『なは』に、よく乗ったの。終点は鹿児島なのに、なんで『なは』なのかしらと不思議だった。汽車が海を走るのかなと。それはね、1968年、旧・国鉄が、沖縄の本土復帰を支援して、その心意気で名付けたそうよ」。
その列車も2008年3月、40年の旅を終えた。
沖縄の家々の門に夜、咲く夜来香(イェライシャン)は、人を、その香りで誘うという。いつもあたたかく迎え入れてくれるオキナワの人々。
その心遣いに感謝しつつ、旅する人は、どの国を訪ねても、その地の人たちに、常に慎ましくありたいと思う。
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