WANフェミニズム入門塾の第3期が本年1月23日(木)にはじまりました。

第1回目は「リブとフェミニズム」がテーマでした。

はじめての顔あわせとは思えないくらい活発に意見が交わされるとともに、お互いが相談にのりあうそんな思いやりのある場になりました。

講義の文献や動画、講師や受講者同士の議論をもとに、自身の経験を振り返り、考えたことや感じたことをまとめた受講者4名の方々によるレポートです。

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①第1回 リブとフェミニズム ◆ 岡田梨花

 第1回WANフェミニズム入門講座「フェミニズム入門塾」で学んだのは、日本語で配信され、日本について言及された、「日本のフェミニズムは輸入品ではない」ということを、政治的にも示すために編まれたアンソロジーに収録された「リブとフェミニズム」の歴史のうちのごく一部だ。

 19世紀末から20世紀初頭にかけて、女性の参政権など政治的平等や「イエ」制度からの解放を求めて、青鞜を中心に第一波フェミニズムが巻き起こった。その後、第二波フェミニズム、「リブ」が始まるのは1970年10月21日、国際反戦デーの女性デモで、田中美津によって手書きのビラ、「便所からの解放」が撒かれたその日からだ。便所というのは自らの意思で性の解放を果たした女性のことを指す男性同士の隠語だが、戦時中、皇軍兵士が慰安婦を指した隠語とも重なっている。男性はホモソーシャルな社会の中で女性を「貞女」と「娼婦(便所)」にラベリングし、二重規範を設けた。このダブルスタンダードからの開放を目指したのが、田中美津による「便所からの解放」だった。リブ(及びフェミニズム)は、特に一部の男性によって過剰に再生産され続けるような女らしさの否定ではなく、女の解放、自分自身を縛る内面規範からの解放も同時に目指し、自らの奴隷根性と向き合う作業を通して抑圧者と闘いながらも、安易な「被害者の正義」に留まることもしなかった。慰安婦問題について触れられた「(日本人と朝鮮人は慰安婦として同じ引き裂かれるような経験をしたにもかかわらず、日本人女性慰安婦が朝鮮人女性慰安婦を抑圧民族として区別したことについて)ここに私は、女として引き裂かれ、女と女の最も引き裂かれた関係をみる。」という文章は、まるで現在も再生産され続ける女性同士の分断を指しているようだ。

 このようなリブの活動や問題提起、社会からのバッシングなど、良い意味でも悪い意味でも様々な形で影響を受け、今日までフェミニズムはバックラッシュを受けながら歩みを止めていない。以前は、社会病理として扱われていた赤線・工場労働者などの女性問題は、女による女のための学問「女性学」によって問い直され、学問の中立性客観性の神話を覆した。リブから産み落とされた女性学を通じて、私たちは当事者経験を理論化できるようになった。これらの活動があってこそ、55年前や1世紀以上前には考えられなかったような、現在当たり前のように享受できている我々の社会生活や内面規範がある。女だって当然行きたければ大学へ行くし、女だからといってもちろん夢は全部諦めない。と、少なくとも社会に出てみるまでは心の底から信じることができるし、便所で結構、こちらだって排泄物(ヤリチン)なんか願い下げだし、そんな化石のようなことを考えている男性をわざわざパートナーに選ぶ女性はいない。だからこそバックラッシュは止まらず、社会からの抑圧には抜かりが無い。就業中の女性の過半数は非正規労働者に押しとどめられ、放課後で共有されたように低賃金労働者の多くを女性が占めている。管理職に就く女性数も先進国最低レベルで、男女間の賃金格差も大きい。この現実を見た若い女性の一部は「早く結婚して子育てに専念したい、専業主婦になりたい」と言う。ジェンダーバイアスが強烈な社会で、仕事と子育てを両方やってボロボロになった先輩を見てきた者たちにとっては、当然の反応ともとれる。しかし、テキスト本文で指摘されているように、「もし彼女たちが、それに先立つ女たちから手渡されたメッセージを受けとらないとしたら、大きな宝物を失う。」ことは間違いない。経済的にも人口的にも難しいが、仮にもしも、全ての女性が専業主婦にな(らされ)る時代がまたやってきたら、どうなるだろう。女性はまた結婚し、男性の庇護下に入ることしか生きる道が無くなり、さらにその博打で負ければ家庭内に閉じ込められて(性)暴力に晒される日々に後戻りすることになる。考えただけでもおぞましいけれど、内面規範の揺り戻しは成功しているように見える点がなんとも恐ろしい。小泉政権以降加速するネオリベラリズムによって、“自己責任”であるかのような感じさせられ方で女女格差も広がっている。だからこそ、私たちは過去の女たちが勝ち取ってきたものから学ぶことを通して、女が女のままで解放されるその日まで前進を続けることを忘れてはならない。
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②リブとフェミニズム、そしてシスターフッドへ――「はて?」の輪をつなぐこと ◆ 薫

 恥ずかしながら、ずっと勘違いしていた。「ウーマンリブ」ではなく、「ウーマンリヴ」だと。そう、リブとは“Black Lives Matter”のLiveだと思っていたのだ。ええそうです、上野さん。塾長のツッコミは真に適切でございました。リブの誕生(*1)とほぼ同時期(*2)に生を受け、物心ついたときにはいっぱしのフェミニストを自認していたというのに、長年、リブとは“Women's Lives”、女が生きていくこと、女たちの生を訴えるものだと思っていた人がここにいたのだから。

 長年の勘違いにようやく気づいたのは、昨年末のこと。きっかけは、今回の課題図書『新編 日本のフェミニズム1 リブとフェミニズム』だった。

 なんてこったい、ウーマンリブって、Women’s Lib、Women’s Liberation――女性「解放運動」のことだったのかい。でも、同時に深く納得した。だから、リブとは社会に働きかけるものだったんだ、単なる哲学にとどまるのではなく――。

 この1冊に綴じ込まれた叫びの数々が、それを教えてくれる。

 リブは借り物、輸入思想では?――繰り返されるそのささやきは、強く鋭い名前(*3)を得た女たちの活動に対するおののきに聞こえてならない。そこには、ただ字面を訳しただけの「ジョセイカイホウウンドウ」からは、決して伝わってこないパワーが秘められているのだから。

 ただ、いつしか「リブ」は、揶揄と嘲笑の響きを帯びるようになった。そのことは、リブとほぼ同い年のわたしも知っている。代わって前に出てきた「フェミニズム」という言葉(*4)は、時とともに(*5)――ささやかすぎる成果とバックラッシュを経て、忌避や嫌悪の目が向けられるようになった。

 それでも、おんなたちは叫び続けた。

 #MeToo(*6)や#KuToo(*7)、#わきまえない女(*8)……。様々なムーブメントを経て、今、女たちの連携を表す最もホットな言葉は、「シスターフッド」(*9)だ。女同士の絆や友愛を表すこの言葉に、あからさまな侮蔑の視線は向けられていない。少なくとも、今はまだ。そして「シスターフッド」は、「リブ」や「フェミニズム」が得られなかった普段使いの和語の声を得ている。

 「はて?」(*10)だ。

 今日、わたしたちは、聞いた。あなたの、あなたたちの声を、確かに聞きました。なぜだか古びてくれない「はて?」を、聞きました。

 おかしいと声をあげてくれた人、記憶をつなごうとしてくれた人のおかげで、わたしたちは聞きました。あえてここにはすくい取られなかった言葉たちがあったことにも、思いを馳せました。

 あなたたちの声は、消えない。おかしいと声を上げた人の声は決して消えない。そのことを、肌で学びました。

 バトンを受け取りました、なんて言えない。わたしも声を上げます、上げ続けます、なんて言い切れない。でも、これだけは言える。

 あなたたちは決して一人じゃない。これは、わたしの声、わたしの「はて?」でもあります。

 ここには、叫ぶ人も、ささやく人も、書き記す人もいるだろう。石を穿つ雨だれになろうが、大地に落ちる雨だれになろうが、かまわない。闘い方は人それぞれ。叫ぶ場所も人それぞれ。けれど、「はて?」の輪をつないで、たくさんの女たちが、あなたたちの後を歩いていきます。

*1: 『日本国語大辞典』にこう記されている。「日本では、昭和四五年(一九七〇)一〇月二一日の国際反戦デーに行なわれた女性だけによる『おんな解放』のデモに対して『ウーマンリブ』と報道されたが、運動の担い手自身がウーマンリブ、あるいは、リブという呼称を用いるようになったのは同四六年以降である。」
*2: この言葉はすぐに人口に膾炙したのか、上記の辞典には、1971年の用例(井上ひさし『烈婦!ます女自叙伝』より「首都で流行の女権運動(ウーマン・リブ)と無関係ではなかろうとか」)が挙げられている。筆者はこの年の生まれである。
*3: 三大英和辞典のひとつ、『小学館 ランダムハウス英和大辞典』によれば、「ウーマンリブ」は和製英語」とのこと。なお、ごていねいにこんな語釈も記載されている。「時に侮蔑的・不快」。
*4: とはいえ、本書が指摘しているように、フェミニズムは「戦前から使用されていた」言葉だ。再び『日本国語大辞典』にご登場願うと、「(1)女性の社会・政治・法律上の権利を拡張し、女性の地位を高めようという主義」として、永井荷風の『妾宅』(1912年):「先生は何も新しい女権主義(フェミニズム)を根本から否定してゐる為めではない」、「(2)転じて、女性を大切にしようとする主義」として、谷崎潤一郎の『蓼喰ふ虫』(1928~1929年):「要(かなめ:主人公の男性の名前)の中にあるフェミニズムの萌芽だったであらう」という用例が挙げられている。
*5: おもしろいことに、2021年版の『現代用語の基礎知識』に記載された「フェミニズム」は、「カタカナ語・外来語」として一行の説明(女性の性差別からの解放と、あらゆる性が政治的、経済的、社会的に平等に扱われる社会を目指す思想)があるのみだが、翌2022年からは「ジェンダー」のカテゴリーのもと、リブをからめた充実した記述となり、2024年まで消えることなく掲載され続けている。
*6: 2019~2021年版の『現代用語の基礎知識』には様々なカテゴリーで登場していた「MeToo」だが、2022年には見出し語から姿を消している。
*7: 「KuToo」が『現代用語の基礎知識』の見出し語に取り上げられたのは、2020年版のみ。
*8: 同じく、「わきまえない女」の登場は2022年版のみだが、見出し語のほか「ジェンダー」「社会風俗」「世相・発言」の3カテゴリーの解説で取り上げられているのが興味深い。
*9: 「フェミニズム」とは対照的に、2022年に『現代用語の基礎知識』に「ジェンダー」のカテゴリーで登場した「シスターフッド」は、2023年からは「カタカナ語・外来語」として一行の説明(女性解放を達成するために結束する「女性同士の絆」を意味する言葉)で片付けられている。はて。
*10: ご存じ、2024年度前期放送のNHK「連続テレビ小説、「虎に翼」(脚本:吉田恵里香)より。本稿はこのドラマへの謝辞でもある。

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③ 第1回リブとフェミニズム ◆ 京都タワ子

*はじめに
 今回の講座では、文献を通じて、これまでの女性たちが紡いできた言葉や積み上げてきた行動を学び、WAN塾生たちが何を感じ、考えて生きてきたのか、それぞれの実体験も交えて、思い思いの感想を語り合いました。その中で、「普段なんとなく感じているけれども、言語化できずにそのままにしていること」「もやもやしていること」「心の底に沈めていたこと」をリブの女性たちの言葉や塾生の言葉から発見することができました。まるで、今まで形が分からなかったものの輪郭が現れてきたような、新たな発見に、わくわくしていました。

*私とフェミニズム
 私とフェミニズムとの出会いは、新卒で入社した会社で、電話対応・来客対応・お茶くみは「女性がするもの」という、今でも?今時?保守的な考えに触れたことがきっかけでした。私自身、祖父母と三世帯で暮らしていたことから、お茶くみはなんとなく女性が買って出てするものという価値観はあり、むしろ献身的な女性らしさ(精神性)が垣間見える動作は(ジェンダー的役割の話は置いておいて)素敵だなと思うこともありました。保守的な価値観に決して否定的ではなかったのですが、こと一人の社会人(人間)として生きていく上で、この業務は私のキャリアを積み上げていくにあたって必要なことだろうか?これって、「女性にしかできないこと」ではなく「女性ぐらいしかやらないこと」なんじゃないの?と疑問に思いました。女性は出産・育児・介護のケア以外にも、日常の些細なところにキャリアに差をつける要因が沢山あるのではないかと感じました。WAN塾生はこれを、「男性中心の(仕事をする)社会において、働くことは男性にとってはhome、女性にとってはawayである」という言葉で表していて、共感を覚えました。 他にも、会社で、救護班が女性だけで編制されていることに疑問を投げかけた際、担当の女性から「そんなことに疑問を抱くなんて変よ。あなたね、女性の方が血をみるのに慣れているのよ。男性にやらせてどうするの?」と返答されて、血をみる云々に留まらず、この会社は、かつて男性に比べて仕事が少なかった女性が看護婦という職業を確立してきた時代背景を理解せず、「看護は女性に限定された仕事」という時代錯誤な考えが今なお色濃く残っているのだ、と愕然とした経験がありました。

 驚くことに、塾生からも似た経験談があり、「私の息子の部活には女性マネージャーがいない。それを見てある保護者のお母さまが「なんで息子たちの‘世話をする可愛い’マネージャーはいないのかしら」という発言にもやもやしていた。これこそ女性による女性蔑視の再生産ではないか」という意見を聞いて、はっとしました。女性にはだかっているのは、男性中心の社会という大きな現実だけでなく、女性による分断もある。「女性の敵は女性」というけれど、それに対して、悲しみなのか、悔しさなのか分からない、複雑な感情を抱えて、今日まで社会の中で共生してきたなと思い出しました。 社会に出たときから、私は男性中心社会の基準に合わせようと’女性‘を演じようとしてきました。本音では、お茶くみを指示された時に、スパッと「はて?」と言ってみたい。だけど、それだと社会性がないとか、大人気がないとか、過剰な権利意識をもった煙たい新入社員と言われる気がして、「とりあえず」「一旦は」黙って合わせないといけないと思っていました。その心の内は、ありのままの姿ではきっと受け入れてはもらえないだろうという疎外感、結局は男性社会に同化しようとする「ジェンダー意識は高いけどメンタルは自己制御」する’フェミニスト‘の姿でした。

*WAN塾での発見
 そんな私は、これまでフェミニズムの価値観を持っている自分に自信がなかったのですが、ディスカッションを通じて同じ仲間がいると知って、勇気をもらい自信を持ちました。この価値観や信念を大事にしてもいい、私が間違っているわけでも、気が強い当然に煙たがられるべき女ってわけでもない、もっとスマートに既存の男性中心の社会を渡り歩いた方が良いのかもしれない・・・そんなことを思って、内面と外面(づら)で葛藤することも、自信を失う必要もなかったのだと思いました。ここでは、自分が見て、感じて、考えたことを言葉にすることを躊躇わなくてもいい、もっと私らしく生きていい場所なのだと背中を押されました。

*さいごに
 この塾の活動を通じて、私は男性社会が作った‘強者’の世界で生き残るために自らに言い聞かせた借り物の言葉で表現するのではなく、また男性と対峙するために肩肘に力を入れた言葉で表現するのでもなく、一人の人、女性として自ら感じることをありのまま語れるようになりたいと思いました。男性のように女性も‘強く‘あらねばならない、男性に対して女性は’弱く‘あらねばならないという呪縛から解放された時、女性として生まれ、女性として生きることに溌剌と、心から誇りを持てるようになれる気がします。一人の人として、女性として、この世界を歪みなく見直したときに、果たしてどのように視界が広がるのか、どんな問題意識を持つようになるのか、どんな言葉を発するのか、これからの見える景色が楽しみです。
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④ WANフェミニズム入門塾 第1回「リブとフェミニズム」レポート ◆ Rin

 第1回講座を受けて、私の経験も踏まえ、感じたことや考えたことを述べたいと思う。

■わたしを束ねないで
 第1回講座に参加するにあたり、与えられた事前課題に取り組んだ。企業の人事部に長く従事し人材開発や女性活躍推進の一翼を担うなどしてきたものの、恥ずかしながら初めて知ることばかりで、できるだけ手元に引き寄せたいと思い、どちらも二度ずつ拝見した。  

 取り組みを終えると、新川和江さんの「わたしを束ねないで」が断片的に蘇り、詩の全文を確認することになった。中学3年の国語授業で触れた詩であったということと同時に、初めて読んだ時のことを薄っすら思い出した。唐突な比喩の多いこの詩に当時私は筆者が何を言っているのか良く解らず、そのことも今回思い出した理由なのかもしれないが、今全文を読み返すととても深く共感できる。現代とは異なり男尊女卑が家庭の中にも平気であった時代に主婦として過ごした母の姿や、私自身の就業経験に照らしながら、もう何日もの間ずっと頭の中でぐるぐるしている。

 新川さんは詩の中で、「わたし」を色々なものに喩えている。自然との深い繋がりや哲学のようなものも感じるし、他者からの抑圧だけでなく、自らも解放しようとしているようにも読める。

 「新編日本のフェミニズム1『リブとフェミニズム』」に「女性の経験を語る言葉が不足しており概念が浅すぎる」とあったが、この詩の豊かな表現に照らしてこの指摘に強く共感できる。そして、私は私をどのように表すことができるのかと考えた時、上手く言葉にできない苛立ちも覚える。女性としての私を縮こまることなく表現する言葉や、毎日の仕事や生活の中で感じる違和感を堂々と訴えられるだけの言語力と勇気を持ちたいと心底感じた。

 第1回講座では更に様々な文献やリブに触れる場の紹介があった。国立女性教育会館「2024年度女性アーカイブセンター所蔵展示『国際女性年から50年展』」には、是非足を運びたい。

■まずは自分の認識誤りを認めることから
 私は1993年(平成5年)に新卒で重厚長大な一部上場企業に“一般補助職”として入社した。同期は男女合わせて100人程度で、30人弱いた女性の殆どが縁故採用だった。人事部に配属された後、「総合職(=男性)のお嫁さん候補として、どこの馬の骨かわからない女性を採用するわけにはいかない」と云っているのを聞き、困惑しつつ、自分には何の後ろ盾もないという不安と、しがらみない自由を感じたのを覚えている。社内結婚はとても多かったが、若い男性の中には「付き合う女と嫁にもらう女は別」と公言する人もいた。

 当時の日本企業の多くは、男女雇用機会均等法などどこにあるのかという状況だった。「結婚しても妊娠しても働き続けたい」「家で暇を持て余したくない」と言いながら“寿退職”せざるを得なかった女性は実に多かったし、私自身も男尊女卑と感じる出来事や経験は枚挙に暇がない。

 「結婚か仕事か」「家庭か職場か」の選択において“お嫁さん候補”の期待に反し無意識に後者を選んだ私は、目の前の仕事を通じて新しい知識を得ることやそれを実践するプロセスがとても面白く、労働時間規制も今のように厳しくはなかったから、学生時代の不勉強を悔いながら連日遅くまで残って調べたり資料を作成したりしていた。男性ばかりの環境で働くことを楽しんでいたし、意見を述べ責任を持って仕事をしようとすれば多少の雑音は聞こえたが、周りの目をさほど気にはしていなかった。成果を急ぎたくて教えを乞うと上司や先輩は時間を割いて手解きしてくださった。志があり優れた人というのは私のような不勉強者にもこんなに温かく接してくれるものなのか、そしてその話はなんと解りやすいものなのだろうと、ただただ感謝し憧れていた。働くことを通じて得られる知識や人間関係、取り組みの実現に向けて汗をかくことが、本当に楽しくて仕方がなかった。私が仕事をする意義は、ただそこにあった。

 私に仕事の面白みを教えてくれた上司との話し合いの中で、「今のままではできることに限界があるが、管理職になればより多くを実現できる。よく勉強すれば自ら判断しても良い」と言われ、“一般職(地域限定職)”だった私は“総合職”になり、更に管理職試験を受けることにした。日本経済や企業を取り巻く環境が変化し、企業はグローバル化推進と共にダイバーシティ推進に取り組まなければならなくなっていたが、私個人が管理職を目指した目的や経緯は、それとはあまり関係がなかった。

 入社以来本社人事部に勤務していた私は、当時従業員の能力開発と組織風土改革を担当していたが、時限立法として成立した「女性活躍推進法」による取り組みの旗振り役として見られるようになっていたようだった。「“女性活躍”という言葉が却って働きにくい」「なぜ“女性”だけなのか、男性なら全て活躍しているというわけではない」と進言したが、企業に女性活躍推進を掲げないという選択肢はなかった。

 知識と経験の幅を広げたいと思っていた私自身の希望もあって、工場への配置転換を経て管理職になり、ほどなくして役職も与えられた。地方行政や地域住民との貴重な関わりと共に、女人禁制の風習が残る直接職場との遣り取りを身をもって経験した。その後地方の営業支店にも勤務したが、それからの毎日は散々なものだった。私は福島県生まれで地方の性別役割意識が首都圏のそれより強いことは理解していたし、旧態依然とした業界の古臭い商慣習やなかなか変わらない組織文化に多少の我慢は日常的だったが、男性中心の職場での大した志も考えもない上司たちとのコミュニケーションは、あっという間に手詰まりとなった。本社から人事部が極たまに発信してくる施策は、営業支店幹部によって面白おかしく揶揄され、適当に捻じ曲げられて本丸に届かない。営業支店には地域限定採用で長く勤める女性や入社したばかりの若手女性もいたが、こういう環境下ではこれら女性も敵に回った。いちいち目くじらを立てていては何も成し遂げられないと平静を装う毎日が続いたが、我慢すればするほど、何を言っても何をしてもいいと思われたようだった。

 劇作家で演劇教育を展開する平田オリザさんは、著書「わかりあえないことから」の中で、「日本語の2000年あまりの歴史の中で、女性が男性に命令したり指示したりする関係は、母親が子供に指示する関係以外にはなかった」「女性の上司が命令するきちんとした日本語というのは、いまだ定着していない」と云っている。その通りだと思う。管理職として仕事をするどころか当初のような仕事振りすら発揮することは難しく、新しい仕事を楽しむ気持ちはどこかへ消え、“私の違和感”や“私の辛さ”を素直に言葉にすることもできず、私は職場でどう振る舞えば良いのか、何になればいいのか、どんどん自信を失っていた。

 我慢の先にあるのはまた別の我慢。組織風土に風穴を開けたいという志は経営層とも共通の認識であった筈だし、応援してくれる男性同僚もいたとは思うが、心無い男性の言動や孤軍奮闘に気づかないかのような会社が厭になり、退職を決意した。働くことの面白さや尊さを教えてくれた会社を勤続30年を目前に退職することになるとは思ってもいなかったが、自分らしく居ることすら難しくなって、これ以上の自己犠牲の意義がどこにあるのかわからないと感じた。

 そして少し視点を変えると、仕事の本質を忘れてただ優位性を示すことに躍起になっている男性、50代後半を迎え企業内キャリアの終着地を言い渡されて肩を落とす男性、やる気も持たずに子会社などに天下って踏ん反り返る男性が多く目に留まった。年を重ねた私の見る目が変わったのかと思うほど、「会社員」は魅力のないものに見えた。かつての上司やお世話になった先輩方と過ごした時間は私にとってかけがえのないものであったし、期待の言葉をかけてくださった方々の顔を思い出すと退職の道を選ぶことはとても苦しく向ける顔もなかったが、「自分の気持ちを優先して決める、それを止めたらもう私の人生ではなくなる」と言い聞かせた。

 第1回講座を終え、私の一つの挫折経験にも照らし、「私(女性)は私(女性)らしさを捨てなければ男性と互角に働くことはできない」と考えたことや、「我慢で乗り越えた先に私(女性)の成功がある」と思ったこと、それが他の女性のロールモデルになると信じたことは、傲慢であったと反省する。まずは自分の認識の誤りを素直に認め、受け止めることから始めたい。そして、これからフェミニズムについて総合的に学ぶと共に、「労働と権力」の分野などを中心に深く勉強したいと考えている。

■「フェミニズム」と出会って
 私のフェミニズムに関する学びはまだ駆け出しでしかないが、フェミニズムを引き継ぐためのアンソロジーとしての上野千鶴子さんの取り組みや、バトンを受け取り繋げようと活動する皆さん方の思いに触れ、新たな視点を持つことができた。第1回講座の全体討議・放課後討議では、性被害、中絶、障がい者の性差別など様々なテーマが扱われた。新聞やニュースで触れることはあってもそれほど身近にしてこなかったこれらのテーマについて、まずは俯瞰することが重要と受け止めている。

 特に、「どんな言葉も暴力、そこに異議申立をする、その異議申立にきちんと耳を傾けることが大切」という上野千鶴子さんの言葉は、ご経験に裏打ちされた重みと説得力があり強く記憶に残っている。とかく企業における人権や多様性の推進では、企業価値向上を目的に政府方針を反映した安易な取り組みを掲げて定量目標を設定するし、勉強不足の私はこれを信じて加担した。多様性を認め合う世界に押し付けていい正解など無いということを指摘され、大いに反省する。  一方で、長い人事労務経験の中で、なぜ一度もフェミニズムに触れる機会がなかったのかは、不思議に思うところである。単なる私の勉強不足ということなのかも知れないが、どうしたらこの思想を広く社会に、企業に、一般にいきわたらせることができるのかと思料する。

日本の社会や経済環境は成熟し、モノで豊かになれる時代は終わった。現在は生き方や心の在り様が幸福度を左右し、一人ひとりが「自分らしい幸せ」を追求する。世界経済フォーラム「ジェンダーギャップ指数2024」で、日本は146か国中118位。上野千鶴子さんは講演で、「運動は前進もあるが後退もある、放っておくとどこに向かうか分からない」「世の中は変わるのではない、“変える”のだ」と仰られた。個人的なことは政治的なこと(The personal is political)。私の経験を片隅の出来事とせずに、今後何ができるのか考えていきたい。
以上

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