このタイトルを見て、どこかで見たことがあると思われた方はいらっしゃいませんか。そうです、去年から朝日新聞の朝刊に連載されている門井慶喜作の小説と同じ題名です。連載が始まってもう200回を超えましたが、この小説は北村透谷の妻ミナを主人公として、夫の透谷を亡くしてからのミナの生涯を描いたものです。

 けれども、これから書くのはミナのことではありません。今回はまさにわたし自身が「夫を亡くし」た話です。多くの皆さんがその渦中におられる介護をわたしも5年間経験してきて、やっと、人並みに日本の介護の一端を知ったというお話です。

 昨年6月に夫を亡くしました。コロナの始まったちょうど2020年夏から夫は体調を崩し、入院を繰り返していました。晩発性小脳変性症という難病で、体のあちこちの痛みを訴えていました。家での介護は難しくなり、夫も家では無理だからどこか老人ホームを探してほしいと言いだしました。急いで近くの老人ホームをいくつか見学して、入居する人も見舞う人も暗い思いをしなくてすむように、まだ半分ぐらいしか入居者のいない新しい建物のホームを、またそこで働いている人たちが元気そうな所を選びました。

 その後コロナがますますひどくなり、帰宅も訪問も制限される時期が続きました。3年目になって痛みが落ち着いて、家でも介護できそうということになり、お正月は家でと、暮れから帰宅させました。家で子どもや孫とお正月を迎えられてよかったと喜んだのも束の間、今度はわたしがぎっくり腰を起こしました。かがむ姿勢が多かったせいだと思います。這うようにしてタクシーに乗って整形に行きました。やむなく夫にはまたホームに戻ってもらいました。

 それ以降、共倒れにならないようにとホームと家と半々にして、行ったり来たりを繰り返すことにしました。家に帰っている時は、ケアマネさんがいろいろな介護サービスを提案してくれました。リハビリの作業療法士、訪問看護師、STと略語で呼ぶ言語聴覚士、家事のヘルパーさん、この4つの職業の人たちが入れ代わり立ち代わり来てくれるようになりました。しかし、手を尽くして介護しても、夫の方は目に見えて体力も認知力も落ちてきました。だんだん自力では歩けなくなり、車椅子でトイレや食卓へ移動させるようになりました。そのうちトイレへの移動も私1人の力では難しくなり、ベッドでおむつを交換することになりました。わたし自身腰をかばいながら、ベッドの上に乗って、よいしょっと右を向いてもらい、シーツやおむつを押し込んで、次にまたよいしょっと左に向いてもらって濡れたシーツを引き抜くのです。夫は男性としては細い方で、52、3キロぐらいしかないのですが、その体を動かすことの重さと言ったら。脱力しきっている体は岩のように重くて、足1本持ち上げるのも大仕事です。

 たびたび転倒もしました。転倒と言っても、立っていてドタンと転ぶのではありません。ベッドから車椅子に移ってもらおうとして、うまく椅子に腰が乗せられなくてずるずると床に滑っていってしまうのです。そうなったら、もうどうしたって椅子に乗せることもベッドに戻すこともできません。30分も孤軍奮闘してどうにもならなくて、近所の人を呼びに走りました。夜中にこういうことが起きたらどうしようと不安になり、ケアマネさんに相談したら、24時間介護サービスの事業所を紹介してくれました。電話すれば20分で来てくれると言うのです。このサービスを契約して、本当に安堵しました。ほんとに夜中に来てもらったこともあります。20分は無理でしたが、30分で来てくれた時は救いの神様の到来でした。

 食事も全部介助が必要になり、もう家では介護しきれないかと思いはじめたとき、またケアマネさんが助けの手をのべてくれました。朝でも昼でも食事とトイレの時に来てくれる訪問介護サービスを利用すればいいというのです。ケアマネさんが探してくれた事業所から、アフロヘアに太いズボンの元気なお兄さんが来てくれました。実に軽々と夫を車椅子に移します。本当に手早く無理なく、むしろ楽しげに着替えさせて、夫を食卓へ連れて来ます。わたしの準備した軟らかい食事を、「お父さん、このおかゆおいしそうだね」と言いながら、むせないように上手に食べさせてくれます。彼は介護福祉士の資格を持っていて、施設で働いていたけど、訪問の方が自分の裁量でできるからと、訪問介護の事業所に移ったのだそうです。こういう青年が来てくれると家も明るくなります。終わりのころはあまり食事が喉が通らなくなりましたが、ミニトマトとイチゴをいつも食卓に出しました。「お父さんは赤いものが好きだね」と言いながら、これも上手に食べさせてくれていました。

 体に変なものを巻き付けられてうるさいと思うのでしょう。おむつを外してしまって、防水シーツも下着もビショビショということが続きました。毎回シーツとパジャマの総着替えです。寝る前に取り替えて、夜中に様子を見て、朝になるとまたビショビショに濡れている。外さないでね、と何度言っても、煩わしいものは取り去りたいのでしょう。家の洗濯機では間に合わなくてコインランドリーに何度も通いました。訪問の看護師さんに言ったら、つなぎの服を着せると外せなくなります、病院や施設では禁止されていますが、ご家族が使うのは認められていますと。思い切ってそのつなぎの服を通販で買いました。届いたのはまさに拘束服、さすがにそれは着せられませんでした。それを着せるくらいなら、自分で何度も取り換えたほうがましでした。 これが毎日だったら、どれほど大変だったことか。家でずっと介護している人の大変さが身に染みてわかりました。そういう人に比べたら、わたしは恵まれていました。ホームでよく面倒を見てくれて、わたしの場合は半分ですみましたので、何とかしのげたのです。

 その後、次第に食べ物が喉を通りにくくなり、誤嚥をするようになって入院、ほぼお定まりのコースを経て、最期を迎えました。

 あれから、1年になります。今、あの修羅場の辛かったことは一切思い浮かびません。その前の元気な時のことばかりが思い出されます。1人になって食事も手抜きばかり。もう作っても一緒に食べる人がいないと思うと、料理をする気にもなりませんが、たまに大根でもおろして食べてみようかと思って、はっと気がつきます、「大根、おろして」と言っておろしがねと大根を渡すと、黙っておろしてくれた人がもういないんだと。栓や蓋の開きにくい容器は「これ、開けて」と言って渡すだけですんだのに、もうそれをしてくれる人がいないのです。「ただいま」と帰っても、「おかえり」の声は聞こえてきません。

 夫を亡くした小説のミナさんはアメリカに留学したり、男子校の英語の教師になったりして元気いっぱいですが、わたしは60年間一緒にいた夫を亡くして、やたら広く感じるようになった家の中で、まだその1人の暮らしに慣れないでいます。

 それにしても、冗談を言いながら明るく介護してくれた訪問介護の元気なお兄さん、夜中に転んだ夫を、軽々とベッドに戻してくれた無口なおじさん、こちらの状況にあったケアとその働き手を次々と探してくれたケアマネさん、仕事だとはいえ、その手際の良さは感動ものでした。こういう人が日本の介護を守ってくれているのだと実感しました。日本の介護サービスのすばらしさを身をもって知りました。こういう人たちがいたからこそ、半分ではありましたが、家での介護もできました。

 国家予算の逼迫から、介護保険が縮められそうになっています。とんでもないことです。介護の場で働く、すばらしく貴重な人たちの報酬を世間並みにすることが先決です。なのに訪問介護の事業所への給付が減額されるなんて、まったく許せないことです。この5年の間、わたしの前に現れたすばらしい介護スタッフの皆さんに少しでも長く働いてもらいたいし、少しでも楽しく働いてもらいたい。

 人が一生の幕を閉じるとてもとても大事な日々に、介護の場で働く人たちが、本人にとってはもちろん、その家族にとってもそれはそれはすばらしく行き届いたケアをしているのです。介護スタッフの皆さんには本当に頭が下がります。こうした重要な、やりがいのある仕事についている人たちが、そのキャリアや働きに見合った報酬を受けるのは当然のことです。

 声を大にして叫びたいです。介護保険を改悪するな、介護従事者の待遇を普通の給与者の水準に引き上げよ、と。