猛暑の中、中国湖南省江永県に伝わる「女書nüshu」の伝承者何艶新さんを訪ねてきました。江永県も暑かったですが、日本より乾燥している分、まだましでした。と言っても、何艶新って誰?女書ってなに?と不審に思われる方も多いかもしれません。以前にもこのコラムでお伝えしましたが、初めての方もおられると思いますので、改めて女書についてお話ししたいと思います。2度目3度目のかたはお許しください。(こちらもご参照ください。)

 中国の有名な景勝地桂林から車で4時間ほど山の方に向かったところに江永県はあります。女書はこの県の上江墟鎮を中心に、そのいくつかの村々に伝わってきた文字です。1949年に新中国が建設される前は、この地方の子どもたちは学校に通うこともなくほとんどの人は非識字者でした。この地の娘たちは結交姉妹といって、少女時代に仲の良い女の子どうしで義理の姉妹関係を結ぶ風習がありました。実の姉妹よりも仲が良く、共に遊び共に女紅―糸紡ぎ、機織り、裁縫、刺繍など女性の手仕事の総称―をして過ごしました。娘時代は幸せですが、成人近くなると結婚という難題が持ち上がります。好きな男性との結婚など当時はあり得なくて、親が決めた会ったこともない男性の元に嫁がされるのが常でした。そこには難しい舅や姑がいて、暴力をふるう夫も少なくなく、跡継ぎの男の子が生まれないと、妾が来ていっしょに住まされるなどということもありました。

   何艶新さんとその伝承者の胡美月さん

 そういう結婚ですから、娘たちは嫁ぐのを嫌がりますが、家にいつまでもいることもできず、追い出されるようにして嫁がされます、そうなると、とても親しみ睦み合ってきた姉妹とも別れなければなりません。嫁ぐ日の半月前から一緒に寝起きして嫁入り道具の女紅をし、嫁ぐ3日前になると、娘たちは村の中心にある祠堂に集まって別れを惜しむ歌を歌い合います。そして泣き泣き別れていきます。別れてしまったらもう意思を伝えることはできない、何とか嫁ぐ姉妹に私の思いを伝えたい、その気持ちを伝える手段がほしい、その切実な思いから女性たちが生み出したのがこの文字でした。学校にも行かない漢字も知らない娘たちが、わずかに村の指導者層が使う漢字を真似て簡単にして、表音文字として400~500の文字を作ったのです。

 その文字を、娘時代におばあさんから習って書き続けている最後の伝承者が、今年85歳の何艶新さんです。江永県では若い女性に文字を習ってもらって、伝承できる人を育てていますが、それはあくまでも伝承するために習う文字で、昔の女性たちが別れの辛さや悲しみ、自分の不遇を嘆き合うための歌を書いた文字ではありません。その気持ちを歌に作り、その歌をこの文字で書けるのは何艶新さんだけなのです。


 先週、6月に病気で入院したと聞いて、心配で訪ねたのですが、さいわい元気になっていて本当に安心しました。もう眼はかすむし頭もぼけてきたから、歌は作れない、文字も書けないと初めは言っていましたが、いろいろ話しているうちに、また少し書く気になって、ついに立派な歌を作って書いてくれました。歌の意味はざっとこういうものです。

姉さんのお心に感謝します
千里遠く隔てて心を寄せて下さり
妹は年老いてもう役に立ちません
頭痛はするし、眼もよく見えなくなり
死んでいるか生きているかわからず日々を過ごし
体は重く、夜も眠れず
私が幸せに過ごすと周囲はねたんで
わずかの名声なのに周囲に広まり
八十過ぎて、九十の春も近く
陽は山峡に落ちて長くなく
山中にはただ千年の樹
世間は百歳老人に会うのは難しく
姉さんと会えてほんとにうれしい
あれこれ語り合ってほんに楽しく
姉と妹の情は深く、思いは重く
おなじ父母から生まれたかのように
もしもこの先若く体が続けば
世間に名を伝えます
25年 何艶新

      何艶新さんの最新作

   伝承者胡美月さんが文字を書いた扇子

    何さんが字を書いているところ


 1994年に、わたしが江永県に少女時代に女書を習った人はいないかと探しに行ったとき、ぐうぜん出会うことが出来たとても貴重な人です。初めて会ったときは50代で、10歳のころにおばあさんから歌も文字も習って以来、全く使うこともなくてほとんど忘れていました。それ以来、わたしが何度も通っておばあさんのことや、彼女自身の娘時代のことを聞いたりして励ましているうちに、みるみるきれいな文字が書けるようになってきたのです。日本の皆さんにも紹介したくて、2度来日してくれています。東京青山のウイメンズプラザと大阪のドーンセンターでセミナーを開いたときは、スクリーンに映し出された彼女の美しい文字を、みなさんかたずをのんでみまもってくださいました。こうした30年以上もの付き合いがあって、わたしのことをお姉さんと呼んでいるのです。昔の姉妹関係と同じだと冗談も言っています。

 県政府も保存に力を入れて伝承できる人を育てようとしていますので、まだしばらくはこの文字も存在できそうです。世界中に文字のない言語はたくさんあって、文字を持たない人もたくさんいます。文字は韓国のハングルを世宗という王様が学者たちに作らせたことで有名ですが、そのように権力や権威ある人の力のシンボルでした。そういうスケールの大きい文化事業を、教育も受けられなかった貧しい農村の女性たちが成し遂げたということは、本当にすごいことだと思います。何度考えても不思議ですばらしいことです。

 中国の南東部の小さな農村に伝わる文化遺産ですから、中国でもあまり知られていません。もっともっと多くの人にこういうすばらしい文字があったことを知ってほしくて、わたしはどんなことでもしたいと思います。何度でも江永県に行って、何度でも何艶新さんに会って、その興奮をお伝えしたいのです。