わたしが中国女文字―女書(nüshu)―に惹かれて、湖南省江永県に行くようになって今年で30年になります。20回近くも足を運んだでしょうか。コロナも落ち着いてきたし、伝承者の何艶新さんの元気なうちに会っておきたいと、この夏思い切って訪ねました。30年前に初めて訪ねたときとは何もかも大きく様変わりしていました。

 まず交通事情がよくなりました。1993年、最初に訪ねた時は上海で一泊して翌日桂林まで飛び、桂林から車で5時間の旅でしたが、今は広州まで飛行機、その先は新幹線2時間半と車で1時間半とで、その日のうちに着けるようになりました。江永県の中も、以前は牛の群れが公道を歩いていましたが、今はドイツと合弁の立派な車が幅を利かせ、時には道路が渋滞するほどです。村の中の道も雨でぬかるむと車が動けなくて下りて押したものですが、今はどこもアスファルトの道が通っています。宿舎も最初は政府の招待所で、シャワーも夕方の2時間ぐらいの間しかお湯が出ませんでしたが、いまは風邪をひきそうに冷えた冷房完備のホテルです。

 そんな大きな変化の中で、女書はけなげに最後の輝きを保っていました。30年前は陽煥宜さんが最後の伝承者として孤軍奮闘、外国からの取材も一手に引き受けて張りのある声で歌っていました。95年には、ちょうど開かれた北京女性会議のために北京まで行ってもらいもしました。



    何艶新さんと女書

 1994年の2度目の訪問の時、偶然のきっかけで何艶新さんが書けることがわかりました。何艶新さんは、村でもよく書ける人として尊敬されていたおばあさんに文字と歌を教わりました。10代の初めにはおばあさんの代わりに、村の人から頼まれて嫁ぐ娘に贈る三朝書を書いたこともありました。でもその後、学校で漢字を習うようになり、古いものはよくないとされる文化大革命もあって、全く触れることもなくなり、4 0年以上ブランクがありました。私たちの訪問がきっかけで、一生懸命に思い出し、瞬く間にきれいな文字が書け、歌も作れるようになりました。すばらしい記憶力で、40数年前におばあさんから教わった文字や昔の物語などを次次に思い出して、96年には立派な伝承者に育っていました。97年には、科研費で女性文化に関するシンポジウムを東京と大阪で開くこともでき、その席で何艶新さんは女書を書き、スクリーンに映し出された美しい文字で、会場の皆さんに深い感銘を与えました。

 1998年には、私たちの現地での調査に触発されて、ほぼ60歳で文字をマスターした何静華さんが登場します。きれいな文字が書けるし、歌もたくさん知っていていい声で歌えるので、一気にスターに這い上がります。それに加えてものすごいバイタリティーで女書の宣伝に活躍し始めます。教室を開いて若い娘に教えたり、昔の人が決して書かなかった大きな文字で国慶節を祝う言葉を書いて政府に持って行ったりと、非常に積極的な行動を開始します。家も県庁のすぐ近くなので、県にお客があればすぐ出向いて女書のデモンストレーションをします。

     女書園、2023年8月撮影


 2000年代に入るころから県政府は女書を観光開発に活用するべく、伝承者の保護、博物館の建設などを構想し始めます。2002年には、昔の女書伝承者の写真や、かつて女性の作った手芸品、農村の家具、農機具などを展示した女書園が開園します。その建物の中央に女書を学び教える学堂が設置され、夏休みには女書講習会も開くようになりました。

 2003年になって、ようやく政府は伝承者の保護を始めます。陽煥宜・何艶新・何静華のほかに、1980年代によく書けた高銀仙の孫の胡美月、地元の研究者周碩沂の妹の周恵娟の5人に「女書伝人」の称号をあたえ、月に20元の補助金を出すようになりました。当時何艶新さんは、いい葡萄を買うと18元するよ、と笑っていましたが。


 2004年に最後の伝承者と言われた陽煥宜さんが96歳で亡くなりましたが、幸い何艶新さん、何静華さんが育っていました。ただ、この2人は全く対照的です。何艶新さんは田舎に住んで街にもなかなか出られないのに対して、何静華さんは街の真ん中に住んで、県との接触が頻繁にできます。何艶新さんは、女書は哀しいことを書く文字とおばあさんに教わったから、大きい派手な文字は書かない、小さい文字こそ女書と考えますが、何静華さんは書道のような太い筆で大きな文字を書き、美しい派手な文字がいいと考えます。何艶新さんは人前に出るのを好みませんが、何静華さんはどこにでも出かけて大きな声で歌います。女書園で、5,6人の女性を指導して、自作自演の女書の歌と踊りとかいうものを披露して観光客に見せたこともあるほどです。

 何艶新さんは、大きい派手な文字はおばあさんは書かなかった、おばあさんは哀しい文字だと言って泣きながら書いていた、と言って、あくまで宣伝用の文字は書きません。積極的に宣伝してくれる何静華さんは、県にとっても大変ありがたい存在で、次第に待遇に開きが出てきました。県は、2010年、何静華さんを国家級の伝承者に推薦します。何静華さんは一気に年に1万元を支給される国家伝承者になりました。

 2012年には何静華さんは、ニューヨークで開かれた「国連中国語の日」というイベントにも参加して、男女平等を主張する宣言を女書で書いて贈りました。昔の圧迫された女性たちが、自らの苦しみを訴えるために造りあげた文字が、男女平等を宣言する文章に使われるというのも実に皮肉な取り合わせです。

 このバイタリティあふれる何静華さんも2016年には脳梗塞で倒れ、2022年4月に亡くなりました。

      女書文字表、江永県

          何艶新さん

         何艶新さん


 今、何静華さんの娘の蒲麗娟さんや、胡美月さんに教わった胡欣さんが、きれいな文字が書ける若い伝承者として育っています。歌はたくさん歌えるし、聞いた歌を女書で書きとることもできます。しかし、自分の気もちを表す歌を作ることはできません。自分の思いを歌に作れるのは今では何艶新さんただ一人になってしまいました。

 昔、この地の女性たちは、娘時代は仲良し同士が義理の姉妹関係を結んで緊密に交わり、女性だけの娯楽を楽しみ、幸せでした。しかし、結婚の時が来ると、親の決めた相手に有無を言わさず嫁がされます。親きょうだいとも切り裂かれ、親しくむつみ合った義理の姉妹とも離ればなれになってしまう、その別れを悲しみ、互いの思いを伝え合えるようにと文字を作りました。自分たちが作った文字で互いの気持ちを伝え合い、その文字を見て結婚後の厳しいつらい日々を耐えました。女書は他人を癒し、自らを慰める道具として大変大事な存在でした。

 今の若い人たちは昔の女性の哀しい思いを知りません。自分の選んだ好きな人と結婚するので、happy, happyです。義理の姉妹関係を結ぶこともないし、女性同士で慰め合う必要もありません。昔の女性たちにとっては、とても貴重な大切な文字でしたが、幸いなことに、いま現地の女性たちは、こういう文字は必要ではなくなりました。女書は歴史的な使命を終えました。

 そういう文字ですから、派手に宣伝することも合わないし、後世に伝えていくのも難しいです。ですが、この地の女性たちには辛い悲しい人生があったこと、そういう辛く圧迫された女性たちは各地にたくさんいたでしょうが、その中でもこの地の女性たちだけが、こういう細く小さく美しい文字を作って女性同士で慰め合ったこと、この事実は、後世の人たちにも知っていってほしいことです。いやこの地だけでなく世界中の人たちに知ってほしいことです。

 女書園をもっと魅力あるものにして、そこを訪れる人を多くする、そこへいけば昔の女性がどんな状況だったか、なぜこの文字が生まれたという文字の歴史を学べるようにする、講習会を開いて興味のある人に文字を習ってもらう、習った人には、また自分の周囲でそれを広めてもらう、そうした地道な活動を続けることでしょう。いちばん若い伝承者である胡欣さんはTikTokで動画を配信してもいるようです。新しい利器を活用して、小さな地方の、女性の大きな文化を世界に発信することも大いにやってもらいたいものです。