
ほんの2か月前に元気な姿を見ることが出来て、喜んで報告したばかりですのに、今回は一番恐れていたことをお伝えしなければならなくなりました。何艶新さんが10月23日亡くなりました。85歳でした。
本当に悲しいです。本当に残念です。世界的な損失です。
何度もお伝えしていますが、中国湖南省江永県に伝わる、女性が創造した世界にもまれな文字―女書nüshu―の最後の伝承者が何艶新さんでした。
何艶新さんは、8歳のころ、おばあさんから女書を教わりました。10歳のころにはマスターして、なんでも思うことが歌にできて、その歌を女書で書くことができました。その後中国社会も大きく変わって、女性も漢字を習うようになり、女性同士が女性だけの文字で交流することはなくなり、1980年代には村から女書はほとんどなくなっていました。何艶新さん自身も結婚し、6人の子育てと農作業に追われて、昔習った女書はすっかり忘れてしまっていました。
1993年に私が初めて江永県を訪ねた時、女書を伝承できる人は陽煥宜さんひとりでした。もしかして、まだほかにも書ける人がいるかもしれないと、翌1994年に伝承者を探す目的で訪ねた時に、偶然何艶新さんに出会えました。
初め、少しでもいいから、何でもいいから書いてみてと頼みました。何艶新さんは、いや、書けない、書けない、忘れた、忘れた、と言い張っていました。おばあさんから習ったと言うのを聞いて、「おばあさんは、どんな人でした? 何を書いていました?」と矛先を変えたとたん、彼女はわたしがメモと取っていた紙とボールペンを奪うようにして、書き始めました。最初に歌を一句歌います。その歌のことばを女書で書くのですが、なかなか書けません。思い出しながら、傍にいた中国の研究者趙麗明に聞いて書こうとがんばりました。何艶新さんの女書復活の瞬間でした。
その後、毎年訪ねるたびに、おばあさんから習ったという長い物語や故事を思い出し、多くの作品を書いてくれるようになりました。おばあさん譲りの素朴で端正な文字の形は、昔の人はこういう文字を書いていたのかと、伝統を彷彿とさせるものでした。45年ものブランクを経て、1冊のノートに「梁山伯と祝英台」がきれいに書かれているのを見て、その記憶力のすごさには圧倒されました。おばあさんが作っていたと、ハンカチに女書を書いたこともありました。四隅には刺繍もしてありました。「この図案は?」と聞くと「おばあさんから」と。図案も手仕事も、おばあさんから教わったことを忠実に再現できるようになっていきました。
1997年には日本にも来て、東京ウイメンズプラザと大阪ドーンセンターで、味わいのある歌と美しい文字を披露してくれました。この年には長い自伝も書いてくれました。幼い時に父親が地主に殺され、母親と祖父母の家に逃げ帰ったことから始まって、長じて意に染まぬ結婚を母親に強いられます。たった一人の母親に親不孝と罵られて、泣く泣く結婚を承諾。その夫は病気がちで、お前が悪いから病気が治らないと八つ当たりされ、辛い思いをやっと慰める文字を取り戻したが、日本に行ったりして有名になると、四方からまた妬まれるという内容でした。昔の女書の世界の女性と同じような切々とした半生記でした。
何艶新さんが書けるようになったのを知って、何静華さんが64歳で猛練習をして女書を獲得しました。猛烈な行動派の何静華さんは、派手好きでイベント好き、県政府に祝い事あれば大きな文字を書いて持って行く、勝手に歌や踊りまで創作してテレビ局を呼んでパフォーマンスを見せる、と大活躍で女書宣伝に励みました。政府も喜んで、国家級の伝承者の称号まで与えました。その間、本物の伝承者の何艶新さんの方は、派手な文字は書かないし、何静華の作った歌は書かないと拒むので、政府からは冷遇され、わずかに県級の伝承者として月に200元の補助を受けるにすぎませんでした。
趙麗明やわたしは、女書の調査研究になくてはならない人として、「あなたこそ本物、あなたこそ本当の女書の伝承者だから」と、励まし続けました。趙麗明は、何艶新さんの協力を得て、古くから伝わってきた作品の読み解き作業を完成しました。わたしは何艶新さんの文字を整理分析して、当時の女性たちがどのくらいの文字を知っていたかを類推しました。
何艶新さんは、おばあさんの文字を伝えるという点ではとても頑固でした。何静華さんが赤い字や大きな字を書くのを、冷ややかに見ていました。県の主宰する会などで、大きな字を書いて見せるのをとてもいやがりました。また女書が昔の女性たちが泣きながら書いた悲しい文字であることを、折に触れ語りました。おばあさんは泣きながら書いていたと、よく話してくれました。
何静華さんが2016年に脳梗塞で倒れました。県から浮ついた派手なパフォーマンスが消えました。県も地に着いた保存を考えるようになりました。後継者を育てることに力を入れ、その学習班の講師には何艶新さんは真っ先に起用されるようになり、2019年、何静華さんが亡くなると、何艶新さんの時代が戻ってきました。
とはいっても、根っからの意志の強さは変わりません。政府の言いなりにはならないし、おばあさんが書いていた文字は、小さい文字だった、わたしの先生はおばあさん、と言い続けました。
一昨年2023年に訪ねた時は、100歳まで生きると元気に話してくれました。この夏も、病気の後ではありましたが、よくなっていて、一緒によく食べ、よく笑いました。「100歳まで生きてね」と握手して別れました。
どうしてもわたしは聞いておきたいことがありました。偶然の出会いから、結果として彼女を女書の出来る人として世に出すことになりました。そのためにいやな思いもたくさんしてきたことを知っています。
「わたしが、あなたの人生を変えてしまったのかもしれない。わたしが勧めて女書を取り戻したことは、あなたにとっていいことだった?」
思い切って聞いてみました。にっこり笑って「よかった」と答えてくれました。心の底から安心しました。
何艶新さん、
今まで長い間「書いて」「書いて」と頼み続けてきました。そのつど、きれいな文字を書いてくださいました。長い間つきあってくださって本当にありがとうございました。
これからは天国で女書をかいてください。天国の皆さんにも、女書のすばらしさを伝えてください。遠藤織枝の最後のお願いです。
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