陽の当たらなかった女性作曲家たち、エッセイⅤ第2回はドイツのゾフィー・メンター(Sophie Menter )をお送りします。1846年ミュンヘン生まれ、1918年ミュンヘン近郊のストックドルフで亡くなりました。フランツ・リスト(1811〜1886)との親交、また、彼女の才能と演奏は「リストの再来」ともてはやされ、華やかな人生を送りました。

 チェリストの父親ヨーゼフと、歌い手の母親ウィルヘルマインの下、9人兄弟として育ちます。母親は当時の皇太子が学費援助を申し出るほどの才能でしたが、何より本人に音楽へのそこまでの情熱がなく、結婚し良き家庭人として暮らしました。

 多くの兄弟が幼少時に亡くなりましたが、ゾフィーとすぐ下の妹は健康に育ち、長姉にピアノの手ほどきを受けました。父親はすぐゾフィーの類まれな才能に気づきますが、専門的に勉強させることには消極的でした。もっとも、この時期父親はすでに不治の病に侵されており、それだけで精一杯な状況でもありました。ただ妻には密かにゾフィーの才能を高く買っていること、焦ることはない、じっくり見守ってほしいと話したと伝えられています。

 まもなく名門ミュンヘン音楽院に入学します。カール・タウジッヒやハンス・フォン・ビューローという当代随一の教授に師事しました。一日10-12時間の猛特訓をし、15歳でカール・ウェーバーの小協奏曲でミュンヘンデビューを果たします。ちなみに指導者のタウジッヒはリストの愛弟子、フォン・ビューローは当時リストの娘コージマと結婚していました。ミュンヘンでのデビューが評判を呼び、シュツットガルト、フランクフルト、果てはスイスでのコンサートに繋がり、リスト作品がとりわけ評判を呼びました。

 1867年から師匠のタウジッヒとともに宮廷お抱えのピアニストとして活動を始めます。夫となる人にも、そこで出会いました。デイヴィッド・ホッパーという宮廷音楽家として活躍するチェリストで、2人はその後、1872年、ゾフィー26歳で結婚し、女の子も生まれます。1870年代には2人でヨーロッパ中をツアーをして歩きましたが、この関係は1886年に離婚に至りました。

 1869年、23歳でウィーンでフランツ・リストに初めて出会います。リストはゾフィーがリスト作曲ピアノ協奏曲変ロ長調を弾いたコンサートに来ていました。その音楽性やテクニックは瞬く間にリストのお気に入りとなり、生涯にわたって2人の親交は続きました。パリのコンサートではリストの再来と持てはやされ、リスト自身も「音楽上の娘」と命名します。

 離婚後の女性がひとりで生きていくのは困難が伴った時代に、彼女は全くその範疇ではなく、それにはリストをはじめ、リストを中心にした盤石な人間関係の後ろ盾があり、加えて美貌も助けになったのだろうと、好意的な男性ライターの記録が散見します。

        リストの生家

 ちなみに、リストは1811年、現在のオーストリア・ライディングに生まれ、父親がオーストリア系ハンガリー人でハンガリー貴族のエステルハージ家に仕えていました。生誕の家は、現在のハンガリー東部・ショプロンからほど近く、筆者も尋ねたことがあります。たいそう横に長い平屋だったのが印象的でした。ワインの産地としても知られており、ワイナリーで美味しいテイスティングをした思い出もあります。リストはドイツ語やフランス語を話せどハンガリー語は出来ませんでしたが、生涯、自身はハンガリー人としての誇りを持って生きました。ゾフィーが知己を得た時代は、数々の恋愛の後、すでに僧籍に入っており、宗教的な音楽性やフランス音楽の影響を受けた作風に移っていました。

 ゾフィーに話を戻しますと、1881年、イギリスへの演奏旅行をきっかけに王立フィルハーモニック協会の会員に選ばれました。1883年にはロシアのサンクトペテルブルグ音楽院に教職を得ます。演奏を優先するために教職は3年で辞めましたが、その後も演奏会で訪ねた先にはファンが大挙して集まる人気ぶりでした。

 音楽家としてのキャリアには離婚による弊害がなかったようで、その後もピアニストとして活躍を続けます。素晴らしいテクニックと音楽性は、リストの超絶技巧の作品を弾くに打ってつけで、各地で持てはやされました。写真が示す通りの美しい外見と華やかなアクセサリーは、「女性ピアニスト」のイメージの助けになったことでしょう。

  リストとその弟子たち(ゾフィーも含む)

    音楽批評誌、ETUDEの表紙


 1899年11月発行のアメリカの音楽雑誌『The Etude』は、ゾフィー・メンターとセシル・シャミナードのコンサートの様子を取り上げています。筆者はE.ペリー。リストやクララ・シューマンのレッスンも受けていた人物で、後年は音楽批評や音楽学のレクチャーをしていました。ゾフィーの演奏はスキのないテクニックに激しい音楽性、プラス、これほどアクセサリーを身にまとったピアニストは他に知らないというほど華やかな外見を詳細に記述しており、批評家が彼女に魅入られた様子がうかがい知れます。一方で、シャミナードは、オール自作自演コンサートでピアノを受け持ち、他の奏者たちとピアノトリオ、連弾、歌曲など様々なジャンルを取り上げた内容の濃いコンサートだった様子です。しかしながらゾフィーに比べると外見に言及した文章は見当たらず、地味な筆致に感じました。

 作曲の勉強に関しての記述はどこにも見つからなかったのですが、リストの超絶技巧の作品や大作を弾く合間にサロン的な小曲を作曲し、演奏することを好んだのかもしれないとの記録がありした。

 チリ出身でアメリカを拠点に活躍した往年のピアニスト、クラウディオ・アラウ(1903ー1991)は、まだ少年時代にゾフィーの自宅に招かれました。アラウの先生はリストの弟子だった人で、ゾフィーの友人でした。ゾフィーはすでに最晩年の70代、美しく着飾り、サンクトペテルブルグの贈り物という宝石で華やかに身を包み、たいへん美しい女性であったこと、「練習から離れていて上手く弾けないわ」と言いつつ、リストの協奏曲をさらっと聞かせ、美しい音色に衰えを知らないテクニックだったと、強烈な印象を述懐しています。

 アラウの訪ねたゾフィーの自宅は、かつてはお城だった建物で、たくさんの猫を飼い、でも娘との折り合いは悪く、ニワトリが逃げていかないようフェンスで囲った庭で過ごしていました。

 最後になりますが、自分はゾフィーとリストの末裔だという2001年生まれのピアニストがいらっしゃいます。日本語Wikiには明記がありますが、英語版にもドイツ語版にも明記がなく、信ぴょう性を調べ続けますと、バイエルン州立図書館のゾフィー没後100年を記念した展示資料に、「ふたりの関係は音楽的なものだけではなく、娘が生まれたことは、これまでの音楽学の分野では知られていなかった」とありました。ただ、この資料は展示紹介文であり学術論文ではないため、更なる検証や研究を待ちたいと思います(出典参照)。

 本日の演奏動画は、ロマンス作品5です。Sophie Menter Romance Op.5
 この他、コンソレーション(慰め)作品10、マズルカ作品6など、ピアノ作品が数曲と、加えて「ハンガリーのジプシーによるメロディ」は、親しい友人だった作曲家チャイコフスキーがオーケストラとピアノ用に編曲し完成しました。

出典)
Song of The Lark, Sophie Menter: Pianist, Castle Dweller, Cat Lover | Song of the Lark
The Etude Magazine Sophie Menter and Cécile Chaminade. - "The Etude" Music Magazine, November, 1899
バイエルン州立図書館、ゾフィーとリストの子供に関する文章は末に掲載されています。 https://x.gd/sVQZA
クラウディオ・アラウに献呈したメンテール作品「アラウに捧げるワルツ」
Arrau plays Menter's "Waltz for Claudio Arrau"
メンテール/チャイコフスキー 「ハンガリーのジプシーによるメロディ」
Sophie Menter/Franz Liszt ‒ Hungarian Gypsy Melodies