
1857年、フランスはパリに生まれ、1944年にモナコのモンテカルロで亡くなりました。後年、レジオン・ドヌール勲章受賞、フランス人女性として初の大きな栄誉でした。
シャミナードは、アマチュアのバイオリン奏者だった父や、歌手でありピアニストの母の下、自然に音楽と慣れ親しんで育ちました。父親は、英国の保険会社・グレシャムに勤務し、また、シャミナードが生まれた頃には出世を果たし高い地位に就いていました。一方で母方は、貴族の出という、経済的にもたいへん恵まれた環境に育ちました。
母親は、1897年のアメリカの雑誌へのインタビューで、「娘は良質な音楽が溢れる環境に育ちました、そして、ベートーベンの曲を聴けば、すぐにメロディを口ずさむ、そんな子供でした」と話しています。
ほどなく移り住んだパリ近郊の高級住宅地ル・ヴェジネ(Le Vésinet )では、同じ土地に住む作曲家ジョルジュ・ビゼーと知り合い、彼こそがシャミナードの才能を見出し、音楽の世界へ分け入る勇気を与え、実際に音楽指導も買って出、あらゆるサポートを惜しみませんでした。
ビゼーは、シャミナードがパリ音楽院へ入学できるように尽力しましたが、シャミナードの父親は、当時の保守層男性にきわめて当たり前の「良家の子女は妻となり母となることが使命」という考えのもと、この考えをけして曲げる日はありませんでした。しかしながら、シャミナードが個人レッスンを受けることは許しました。ピアノ、和声、作曲と、フランス最高峰のパリ音楽院の教授達に濃密なレッスンを受けました。
また、このヴェジネの自宅は、サロンコンサートを開催するようになり、数々の作曲家が訪れ作品を発表する場となりました。ビゼーはもとより、シャブリエ、グノー、マスネー、サンサーンス等、今の時代に至る錚々たる作曲家が出入りしました。また、この時期はフランスで「印象派」と呼ばれる画家たちの台頭も文化的背景にありました。シャミナードはこの環境のもと、自作を披露したり、そこで批評を受けたりと、知的で豊かな音楽的刺激を受けていきます。また、ジェンダーによる差別を超えて、女性に対する性差別のない、純粋に作曲家としてのシャミナードへの賛辞や尊敬を受ける場でもありました。
男性作曲家達からの大きなサポートのもと、正式なデビューは、フランス人作曲家達によって1871年に設立された「フランス国民音楽協会」でのことでした。1890年のピアノ三重奏、1891年のオペラ組曲を皮切りに、次々と作品を発表していきました。
シャミナードは一方で、作曲家としての師ビゼーの影響の他に、ドイツのロベルト・シューマンを好み、作風に大きな影響も受けていました。シューマンには「ユーゲントアルバム~ album für die jugend 」という子供向けの小品を集めた作品集がありますが、シャミナードもこれに倣い、子供のアルバム~Albums Des Enfants」を書いています。
この活動の背景には、サロンで培った音楽的経験が大いに役立ちました。そして、彼女のピアノ作品や歌曲は、一般の音楽愛好家の女性達のお気に入りとなりました。気軽で弾きやすい作品を書くことで、女性達がこぞって楽譜を購入し演奏を楽しみました。この一連の活動が、音楽の世界に身を置く女性作曲家の存在を知らしめることにも繋がりました。彼女の作品は、女性達からの幅広い応援・サポートにより、このように開花したと同時に、女性作曲家として、当時では稀にみる確固たる収入の道を得ることとなりました。

ヴェジネのサロンは、1880年代まで続きましたが、その後はサロン用の小品の作曲を超え、大作を書く方向へシフトをしていきました。キャリアを、より高く、そして前進させる目的がありました。それとともに、各地へリサイタルツアーへ出るようになりました。
数々のオーケストラ作品、交響的バレエ、ピアノソナタと、その後の10年が作曲活動のピークとなります。

かねてから、作曲活動は結婚と相いれないものだと語り、数々の恋愛はあれど、音楽的成功に伴い、結婚への思いは希薄なシャミナードでした。しかしながら、母親の友人関係を通して、1899年、マルセーユに住む楽譜出版業の男性と偶然の出会いをします。そして、1901年に、この男性カルボネル氏と結婚をしました。シャミナード44歳のとき、そしてカルボネル氏は20歳年上の男性でした。作曲家の彼女へ、最大限のサポートを惜しまない男性でしたが、夫はかねてからの病のため1907年に亡くなり、6年間という短い結婚生活に終止符を打ちました。ちなみに、シャミナードはその後再婚もしませんでした。この結婚は、母親の影響が色濃くあったとされていますが、シャミナードはパリで音楽活動に精力を傾け、夫とは別居結婚の形態をとりました。シャミナードや母親の日記は破棄されていて、また実際の彼女らを知る人たちの記述も見当たらない現在では、44歳になって今更とも思える結婚をなぜ選んだのか? 真実を知る術に乏しいのも事実です。
シャミナードのコンサートツアーは続いていました。その知名度はどんどん広がりを見せ、ドイツ、ハンガリー、トルコも含めた東西ヨーロッパ各地から、イギリス、そしてアメリカへも訪問しました。とりわけ、イギリスではヴィクトリア女王のお気に入りとなり、度々招待を受け御前演奏を行ったことが更なる知名度へ繋がりました。その後1908年に始まったアメリカ合衆国へのツアーは、ホワイトハウスでの演奏等、活躍は更に広がりを見せ、彼女の音楽家としての成功をより盤石なものとしました。全米各地に「シャミナードクラブ」と名付けられたクラブが誕生し、その会員は多くが女性で、クラブは全米音楽協会との提携がなされたことにより、一般女性の音楽ファンないしシャミナードファンを多く生む土壌となったのです。
しかしながら、当時のアメリカはまだまだ男性優位社会、男性ばかりが雁首を揃える批評家の世界において、「サロン風小品は甘ったるい女性的な好み」と非難され、大曲を書けば「女性作曲家なのに過度に男性的」と非難され、どちらに転んでも、男性優位社会で頭角を現した女性の扱いに言葉を失います。その一方で、アメリカ人女性作曲家エイミー・ビーチとの出会いがあり、同年代のふたりは文通を通して友情を育みました。
ほぼ同時代を生きたフランスの男性作曲家に、クロード・ドビュッシー(DEBUSSY 1862年~1918年)がいます。今に至るまで世界的な名声をものにしています。ふたりの作風は大きな違いがあり、ドビュッシーは印象派と呼ばれる曖昧な調性感に美しさを求める作風としましたが、シャミナードはあくまで旋律をはっきり打ち出した明快な調性感のある作風でした。シャミナードはドビュッシーの作風に批判的な見解を述べていますが、当時の風潮は、より前衛的な新しい音楽に潮流が移って行きました。

ちなみに、1910年には彼女のピアノ曲のヒットを記念して、イギリスの香水会社からシャミナードの名を冠した香水が発売され大人気を博しました。
また、シャミナードの「フルートと管弦楽のコンチェルティーノ」は、1912年パリ音楽院の試験のための委嘱作品、女性作曲家では初の依頼を受けました。伝えられている一説には、彼女の元を去ったフルート愛好家の恋人への当てつけで、悪魔のように難解な曲を書いたとされていますが、信ぴょう性は乏しいとも言われています。この曲は非常に良質で、現在ではあまり顧みられることの少ない彼女の作品の中、群を抜いて人気を博しており演奏される機会も多い曲です。
アメリカでの大きな成功にもかかわらず、アメリカは1892年まで作品にたいする著作権が確立していなく、作品がパブリックドメイン(公有財産)として扱われていたため、作曲家への十分な保護がなされていませんでした。彼女が当然受けるべき作品への対価は乏しいものでした。一方で、フランスでは出版社の変更はありながらも、契約は長らく続きました。還暦を過ぎるまで作品は書き続けましたが、時代の潮流は確実に変わっていき、彼女の作品は以前ほど売れなくなりました。兼ねてからの病も伴い晩年は経済的に厳しい環境に置かれ、姪の住むモンテカルロで亡くなりました。
現役時代にすべての作品出版が陽の目を浴び、その活動は華やかなに見えながら、死後にこれほど注目の少ない作曲家であることに筆者は残念でたまりません。はずかしながら、フルート曲は知れどピアノ曲は存在すら知りませんでした。これからはコンサートに出来るだけ取り入れたいと、音楽の世界に身を置く者として思いました。
この度の作品演奏は、 200曲もあるピアノ小品の中から、「オリエンタル作品22」をお聞きいただきます。きわめて明快でわかりやすく、いわゆる当時の西洋人がイメージした東洋のエキゾチズムでしょうか。完全5度、完全8度の音程が散りばめられた素敵なキャラクターピースです。
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