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あの日、あの人を思い起こす 田丸 理砂
2013.03.22 Fri
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あの日からもうすぐ二年(これを書いているのは3月初旬)。森まゆみの『震災日録 記憶を記録する』を読みながら、2011年3月11日からの日々を思い返す。冒頭には「いま起こっている途方もない災厄について、何か分析したり、評言めいたことを書くことは私にはできない。だけど関東大震災について、東京大空襲について、書き遺されたリアルタイムの日録を読んで、あとでまとめた感想とは違うと納得することがある。新聞やテレビは大所高所から報道する。私は26年間、『谷根千(やねせん)』で小所低所から人々のかそけき声を聞き取ってきた。地域の日常を、被災地で見たものを聞いたものを書いておこうと決めた」と記されている。
森が日々見聞きし体験するなかで、心が揺れ動くさまに、わたしはみずからを重ね合わせる。高台移転が必要と言っていた彼女が、時間がたつにつれ、はたしてそう言い切れるかと再び問いただす。記されている事実よりも、むしろ「揺れる自分を眺めながら」の、森の「迷い立ち止まる」姿に共感する。また森たちと以前より交流のあったムスリムの人たちが被災地に支援に駆けつける様子が記録されているのも貴重である。「いる場所によって見える景色は違う」という彼女の言葉はここにも生きている。
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ところで本書ではまた、コミュニティが抑圧的に働いたことも多かったのではないか、と指摘されている。東日本大震災の報道を目にしながら、わたしは、その被害の凄まじさに打ちのめされながらも、避難所の様子が映されるたびに、「家族」とか「絆」という言葉が素晴らしいこととして連呼されるたびに、自分にみたいに、シングルで、地縁もほとんどない女は、避難所でどうしているのだろうかと、考えずにはいられなかった。みやぎの女性支援を記録する会【編著】『女たちが動く 東日本大震災と男女共同参画視点の支援』のなかで浅野富美枝は「今回の震災の被災地には、都市部とは異なった人間関係の密な地域が多かったことから、プライベート空間のあり方については地域の特殊性を考慮すべきだという論議が一部見られた。しかし、震災前の地域の旧来の〈密な人間関係〉は、地域の女性にとって必ずしも居心地のいいものではなかった。逆に、その旧来の〈密な人間関係〉のなかで苦しい思いをしてきた女性たちが少なからずいた」と述べている。つまり「密な人間関係」を抑圧的に感じているのは、かならずしも地域社会でアウトサイダー的な女だけではないのだ。
非常時には平時よりもさらにジェンダー構造、性別分業が強化され、女はみずからのニーズを声に出しにくい状態に追いやられる。『女たちが動く』のほかにも、この間にさまざまな女性たちが、女性の視点からの災害支援の必要性を訴えている(竹信三恵子・赤石千衣子編『災害支援に女性の視点を!』、日本BPW連合会編『3・11女たちが走った 女性からはじまる復興への道』、村田晶子編著『復興に女性たちの声を「3・11」とジェンダー』など)。そして女に注目することは、実はこれまで存在を軽視、あるいは無視されてきた存在(がいるかもしれないこと)に思いをめぐらすことともつながるはずだ。
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さて冒頭で触れたように森まゆみはリアルタイムの日録だからこその可能性を見出しているが、前回のエッセイの中でトミヤマユキコさんは、インタビューに、読者とそこに登場する人たちとの濃密な出会いの場を見る。インタビューの名手として定評のある島崎今日子の新刊『安井かずみがいた時代』は、安井を取り巻く人びとへのインタビューをもとに、安井かずみ(1939~1994)という伝説の女性に迫った本だ。わたしは安井の歌は知っているけれど、全盛期の彼女をほとんど知らない。『安井かずみがいた時代』からは、安井がいかにカッコよく、時代の先端を突っ走っていたかがビンビン伝わってくる。
若くして訳詩家(『ドナドナ』『花はどこへ行った』も安井による)、作詞家として成功し、加賀まりこやコシノジュンコの親友だった安井かずみ。数々のヒット曲を生んだ彼女が38歳で8歳年下の加藤和彦と結婚して以降、彼女は、それまでの友人たちとは疎遠になり、加藤との二人だけの世界に没頭するようになる。詞も加藤の曲のためにしか書かず、メディアに登場するときはいつも二人一緒だった。だからわたしの記憶にあるのは、加藤和彦といつも一緒にいる安井かずみの姿である。1994年に安井は肺がんで亡くなり、2009年、加藤は自ら命を絶っている。
アマゾンのサーバでエラーが起こっているかもしれません。一度ページを再読み込みしてみてください. 安井かずみのかつての親友、加賀まりこは『純情ババァになりました』のなかで、加藤と安井の生活を「彼女が選んだ暮らし――。/それは私から見ると、いつの間にかスノッブな価値観で彩られていくように思えた」と批判している。重病の安井に献身的に尽くす加藤を夫の鑑とよくとるものもいれば、彼女の死後1年もたたずして再婚し、それまでの交友関係を断ち切った加藤を悪しざまに言うものもいた。周囲の人たちの抱く安井像、加藤像は、その立ち位置によってさまざまに異なり、ひとつに収斂されることはない。それでもこの本を読むと、たまらなく、最高にイカしていた時代の安井かずみを見てみたかった、感じたかったという気持ちになる。
カテゴリー:リレー・エッセイ