痛い本である。著者の中尾知代さんが日本軍のイギリス人を中心とした連合軍捕虜について長く聴き取り調査をしていることは知っていた。それがどんなつらい苛酷な経験であるかも、想像がついた。取材を申しこんでも拒絶、憎悪、怒りを向けられ、相手の悲嘆や苦悩、混乱に立ち合う。
それに耐えて得られた800時間にわたるオーラル・ヒストリーのデータの背後には、責められ、試された末にようやくたどりついたラポール(信頼関係)に至るまでの気の遠くなる時間がある。
本書は2008年に刊行される予定だった。それが2022年まで14年も延びた理由には、ご本人の病気や家族の不幸などが重なった。1960年生まれの中尾さんは60歳を超した。もし本書が刊行されなかったとしたら、中尾さんの身体に蓄積した膨大な記憶は日の目を見ることがなかっただろう。本書にはそのすべてが書かれているわけではない。淡々と抑制された筆致の亀裂から、中尾さん自身の痛みが貌(かお)を出す。そしてその度に、読者にも痛みが奔(はし)る。
トラウマは伝染する。捕虜収容所における不条理な暴力や拷問、処罰、そして絶え間ない飢餓…それを経験した当事者の一次受傷、そしてそれにさらされた者の二次受傷、さらにそれを聴きとる者の三次受傷、それを読む読者の四次受傷、わけても日本人の読者であることのとくべつな受傷。なぜならその傷を与えたのは、ほかならぬ日本だからだ。
被害の記憶は語られるが、加害の記憶は語られない。「アンネの日記」に涙する日本人は、戦時下の捕虜収容所における日本兵や軍属の残虐性について無頓着か無知である。被害者が語るのは礼儀正しくふるまう「あの日本人がどうしてここまで残酷になれるのか?」という問いだ。
ヨーロッパ人のあいだでは「日本人は残酷な民族」で通っていると知って、ショックを受ける。そして日本のわたしたちは、捕虜を虐待した日本兵たち自身が、不条理な暴力にさらされていたことをよく知っている。そして残念なことに、それはいまでも日本人なら「あるある」として理解可能な、いじめや同調圧力の効果であることも。
本書は捕虜たち自身だけでなく、戦後復員した後の妻や子どもがさらされたトラウマや暴力についても論及する。もっとも苛烈な暴力は息子に向かい、息子は壊れるか離反する。妻や娘は生涯「家族という収容所に囚われ」てケアの役割を果たす。日本でも復員兵の家庭内暴力についてようやく関心が集まってきたところだ。1世紀近く経ってもトラウマは世代連鎖する。ウクライナとロシアでも、このトラウマはこの先1世紀以上続くだろうか。
本書はオーラルヒストリーの方法論についても精緻で周到な議論を展開する。証言の信憑性や語りの場や文脈による語りの変容、さらに聞き手の受傷にも目配りする。そこにジェンダー、人種、世代、年齢、社会的地位、体格の差すらが及ぼす影響についても繊細な配慮を忘れない。オーラルヒストリーは研究者をも安全圏には置かないのだ。
「慰安婦」問題やシベリア抑留者、満州引揚者、空襲被災者…などと同じく、この捕虜問題も終わっていない。日本は謝罪も補償もしていない。トラウマ被害者が謝罪と補償を求めるのは、傷を与えた外因である責任主体を確定し、トラウマから「自由になる」ためだという著者の洞察は深い。そして「名誉のために負債を払う」のは加害者の責任なのだ。
元捕虜のひと言を著者は引く。
「頼む、まず(日本が)謝ってくれたまえ、それから和解の話をしよう」
(『熊本日日』大型書評欄「上野千鶴子が読む」2022年10月30日付けから許可を得て転載)
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